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私は携帯電話のたぐいは本当は持ちたくない。くさりみたいなものだから。繋がれるのはきらいなのだ。くさりで繋がれ合っていることで安心感を持つ人がいることは事実だけれど。
そんな私も、止むを得ない事情ができて、3年前PHSを持つことになった。
しかし父の入院生活にはPHSは欠かせぬものとなった。父は最初そんなものは要らないと言ったが、公衆電話は遠いし、痛みが強くてあまり動けない。病院の入院係に使用の可否を尋ねると、電波の弱いPHSと言えども前例がなく、断固禁止と言わぬ代わりOKでもなかった。ICUへ行くと、待合室に病院長名で「携帯は禁止だが、PHSは可」とあった。結局、病棟婦長の裁量でということになるのだろうけど、私は考えた。
建前を守らねばならない立場にある人にお伺いを立てるのは賢明ではない。返事はNOに決まっている。でも、万一輸液ポンプ等が誤作動してもブザーが鳴るし、個室なら他の患者には影響はない。黙認していただくというのが最善の方法ではないか。ずるいようだがそれしかない。
電波が弱いPHSは、医師・看護婦等に病院内で使われていると報道しているテレビ番組もあった。主治医に呼ばれて病状の説明を受けている間も、同席した先生方の携帯(PHS?)が代わる代わる鳴るので、先生方に確認するとPHSとのことだった。
父は枕頭台の上に充電器まで置いていたが、誰もとがめる人はなかった。口に出しては言えないが、感謝した。PHSと携帯は、見た目ではどちらかわからないので、携帯だと思われていたかもしれない。
父と繋がっている安心感が持てた。煩わしくて嫌いだったはずなのに。
電話会社は、実際に医療機器を使うなどしてテストを行い、医療の場でのPHSの使用が本当に可能かどうかもっとはっきりさせるべきではないだろうか。もちろん、誤作動が患者の命の危険に直結するような器械を使っている場所は別だが。院内に貼り紙をしているだけでは何の進歩もない。PHSと携帯の見分けがつかないという問題はあるが、動けない患者にとっては家族とのホットラインになり得る貴重なものなのだ。 |
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病を克服できなかった闘病記を書くということは、思っていたほど簡単ではないと、今になって気がついた。悲しい、苦しい思い出をたどり、文章にするということは、まだ癒えぬ深い傷を自らの手でえぐるような行為ではないかと思うことさえあり、どうしようもないこころの痛みを感じることがある。
いっそのこと、このまま胸の中の奥深くにすべてを封印してしまう方が楽なのかもしれないと、ときどき思う。
父の闘病中、ひとりの医師の癌の闘病記を読んだ。闘病途中で終わっていたので、今も闘病を続けられていることとばかり思っていた。しかし、最後に著者の紹介のところを読み、闘病記を書き続けられなくなったわけを知ってしまった。泣きたくなった。
私の手もとには、3冊の大学ノートが残っている。父の闘病の記録をしたためたものだ。涙でぐちゃぐちゃになって読めないところもある。きれいな字だったり、なぐり書きだったり、そのときそのときの私の心もようがそのまま映し出されている。
もうこのノートを開くこともないと思い、机の引き出しの底にしまいこんでいた。父が残したわずか6ヶ月間の足あとが、まだ温もりを残しているような気がするのに。
早く先へ書き進めようとするほどに、つらかった時期へと近づき、父の表情が、父の声が、鮮明な記憶となって蘇ってくるのである。 |
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最近、実家の近くに、デイサービスセンターを併設した新しいクリニックがオープンした。リハビリプールがあり、音楽療法も行っているということだったので、関心を抱いた私は、先日電話を入れ、今週初め、母を連れて見学に行った。そしてきょう、母を無料体験に参加させていただき、私も付き添った。
母は要介護1の認定を受けている。今受けている介護サービスは、週に2回の通所リハビリ(デイケア)のみ。ヘルパーに来てもらったこともあったが、母は他人が家に入ることに抵抗感を示し、すぐに断ってしまった。
通所リハでのAKA療法(仙腸関節の歪みを直す治療)のおかげで、40年来の腰痛は軽減したが、60代の終わり頃から病的に物忘れがひどくなり始め、進行を抑える治療も受けているのだが、どうにもくい止めるのは難しそうである。
日頃、私はできるだけ母の顔を見に行き、母の身の回りの世話をしているのだが、ほとんどの時間、家にひとりで閉じこもっているのは良くない。身内だけでは、介護にも限界がある。デイサービスに通って、専門家のいろいろな治療やサービスを受けたりする必要性は、前から感じていた。
デイサービス体験では、昼食後の休憩時間に入った頃、母はもう帰りたいと言い出した。初めてで疲れたのだろう。ところが、帰りの車の手配をしてもらうのを待っている間に、リクレーションの時間になった。
部屋の真ん中にネットを張って、両側にイスを並べてみんなが座っている。これから風船を使って、座ったままの「バレーボール」の試合をするのだという。
すると母が自分もやると言い出して、その中に入って行ったのだ。私は驚いた。腰痛持ちで、運動なんかとんでもないと誰もが思っていた。しかし母は、参加者の中で一番張り切っているように見えた。立ち上がって腕を伸ばし、懸命に風船を叩き返していた(立ち上がるのは、ほんとはルール違反だったのだけど)。
あんなに生き生きした表情の母を見たのは、ほんとに久しぶりだった。楽しかったと言って、息を弾ませていた。帰ると言っていたはずなのに、もうそんな気持ちはどこかへ飛んで行き、次のリクレーションにも参加した。
もしかすると、母自身も私たち周りの者も、これはダメ、あれはできないと決めつけ過ぎていたのかもしれない。デイサービス担当職員の方の話では、歩けないことになっていたはずの人が、立ち上がって思い切りボールを蹴ったり、きょうの母のようにまわりを驚かせたりする出来事は、ここでは日常茶飯事であるらしい。
デイサービス利用者の持つ隠れた能力や可能性を引き出すため、職員の方々は常に考え、工夫を凝らし、ケアに当たってくださっていることを実感した。
リクレーションのあとのコーヒータイムで、音楽療法士の方が、キーボードの演奏をしながら歌を歌ってくれた。曲目は「ゴンドラの歌」、「七つの子」などだった。
透き通るようなやさしい歌声に惹き込まれながら、私は、ふと生前の父のことを思った。去年の5月、眠ってしまって目を覚ましてくれない父に、父の好きな音楽を聞かせたり、テープに合わせて私が下手な歌を歌ったことがあった。歌は童謡の「ふるさと」だった。
あの頃の苦しかった日々がまた思い出され、目頭が熱くなった。あのとき、私の歌声が父に届いていたかどうかはわからないけれど、できれば、届いていたと信じたい気がする。(2003.6.12.木)
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きょう、久しぶりに献血をした。正確には、“献血できた”と言った方がいいかもしれない。
ちょうど1年前は、できなかった。献血車に乗って血圧測定の後、右腕から少量採血して、水色の液体の入ったビンの中に、血液をポトリと1滴落とすと、なんと沈まずに浮いたままだった。
今までに10何回も献血して、そんなことは初めてだったので、ショックだった。父を亡くした直後だったので、寝不足や疲労がたまって血液もくたびれていたのだろうか。
自分ではなんともないと思っていたのだが、体は正直なのかもしれない。
そしてきょう、1年前の雪辱?を果たすわけでもないが、献血車に乗ることにした。
車内でまず血圧測定。高いのはわかっているので、言われる前に「いつも高いんです。」と言うと、若いお医者さんは大きく頷いて、最高血圧168と書き込んでいた。「これは病気じゃないんです、いつも測ると上がるんです。」と言い訳がましい私。
私は、若い頃から血圧が高い。緊張症なので、測ると思うと上がる。そういう場合もあると最近新聞で読んだ。以前いろいろな検査を受けたこともあるが、全く異常はなかった。病院でも、しばらく横になっていてから測ると正常値だったりする。
でも、信じてもらえなくて「病気」にされたこともある。8年前の今頃、私は前期破水で入院中だった。子宮収縮抑制剤のウテメリンを24時間点滴、絶対安静の状態で、副作用である動悸に悩まされる日々だった。
おまけに、いつの間にか「妊娠中毒症」ということになっていて、完璧な「減塩食」を食べさせられる羽目になってしまった。
朝食は味噌汁なし。副食は、砂糖と塩の入っていない「酢だけの」野菜の酢の物ばかり。これではたまらないと思って、私は輸液ポンプをズルズルと引きずって、こっそり院内の売店へ出かけていき、インスタントの味噌汁を買ってせっせと飲んでいた。
食事のカロリーも低く抑えられていたのか、体重が増えるはずの時期なのに、なんと減り始めた。これではおなかの赤ちゃんが育たないと心配になった。そしたら、母がごちそうをいろいろと差し入れてくれた。
「困った患者」だったかもしれないが、妊娠37週に入ってすぐ、無事出産した。
そもそも「妊娠中毒症」というレッテルを貼られたのは、産婦人科外来が2階にあったことも原因のひとつかもしれない。駐車場が常時満車状態で、いつも定期健診の予約時間に遅れそうになり、大きなお腹を抱えてふうふう言いながら2階への階段を上がり、受付をすると同時に血圧測定。息を切らした状態で測ったのでは、当然血圧も上がるだろう。他の人たちはどうだったのか知らないけど。
献血と関係ない話になってしまったが、とにかくきょうは血圧の高さは問題ないと見なされたようで、看護婦さんがまず少量採血して、レイの液体の中へ私の血液を1滴ポトリと落とした。 さあ、前のようにスーッと沈んでいって、と思いながら眺めていたが、きょうは沈みかけて一旦止まった。「ああ、今年もまたダメか・・・」と、私はがっかりしてため息をつきかけた。そしたらまたゆっくり沈み始め、結局採血OKとなった。
以前は、消毒用の綿かなんかで腕を2〜3回拭いただけで、すぐにブスリと採血の針を刺されていたが、きょうはイソジンでかなり広範囲に消毒し、しかもイソジンが乾いてから針を入れるという念の入れようだった。
私は体重50s以上という条件をクリアしているので、いつも問診票記入時に400mlの献血をと言われるのだけど、一度400ml採ってもらったら、血圧が下がってふらふらになってしまったので、申し訳ないが断ることにしている。少しでも誰かのお役に立てたらと思う一方、自分の体も大事にしなくてはと思う。
本当は、骨髄バンクに登録したり、ドナーカードを携帯したりということもしておきたいと思うけれど、家族のことを思うと踏み切れない。骨髄液を提供する場合は全身麻酔のリスクを負わねばならないし、脳死状態での臓器摘出となると、やはり残された家族が苦しい決断を迫られることになるので、病気の方々にはほんとに申し訳ないが、今の私には勇気がない。わずか200mlの献血が精一杯である。(2003.6.25 水) |
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10日前、母が入院した。
1年前から受けていたAKA療法(仙腸関節の歪みを直す治療)が効かなくなったのか、最近腰痛がまたひどくなったらしく、ここ半月くらい、家で横になっていることが多くなった。
朝は特に気分が落ち込むようで、早朝電話を掛けてきて「死にたい」とか「救急車を呼んでほしい」とか言うので、どうしたものかと困っていた。
あわてて飛んでいくと、電話したことは忘れてもうけろりとしていて、何の用事かと聞いたりすることもある。
半年余りがんばってきたひとり暮らしも、そろそろ限界ではないかと私は思っていた。それならいっしょに住めば・・・とよく言われるのだけれど、いろいろな事情でそれもなかなか難しい(第一、母本人が気兼ねしている)。
自分の生活のこともあるので、24時間一緒にいてやることは不可能であり、この先、行動面での問題が大きくなり、片時も目が離せなくなるかもしれないことも、念頭に置いておく必要がある。
デイサービスのない日には実家へ母の顔を見に行き、毎日何回となく電話を掛けて様子を見ていたが、何回電話しても出てこなくて、深夜様子を見に行ったことも何度かあった。 子供たちと泊まりに行くと、これまた神経が高ぶって調子が狂ってしまう。私の家に連れてくると、落ち着かないのか、10分おきにトイレに行く。40年以上住み慣れた自分の家が、母にとって一番居心地がいいいのはよくわかっている。
デイサービスに出かけた日の晩は、だいたい声が明るく、元気なのだ。
少し前に脳のMRIを撮ってもはっきりと診断はつかなかったが、脳の血管に詰まりが見られないということと、行動面の理由から、母はアルツハイマーの疑いが持たれている。なんでもすぐに忘れてしまうので、日常生活にもいろいろと支障が出始めた。自分でできることがひとつずつ減っていくのを見るのは、とてもつらい。人間は、ひとつずついろいろなことを忘れていき、一番最後には、2〜3歳の頃からやっている、「自分でトイレに行く」ということを忘れるのだと聞いた。
しかし、高齢者のうつ病が痴呆症(いやな言葉だが)と間違われることもあるらしい。うつ病なら治療が可能なので、一度別の専門医に診ていただくべきなのかもしれない。
最近暑くなってきたが、どんなに暑くても、エアコンのスイッチを入れることができない。窓を開けていてはエアコンがきかないことも忘れているし、第一エアコンというものを認識していないようである。お風呂やシャワーで汗を流せばすっきりすることも忘れている。
このようなことは、身近で体験してみないと信じがたいごとで、とても理解できないことだと思うが、ほんとうのことである。
ガスは危ないから電磁調理器に換えようと思っても、新しい調理器具を使うことなど到底不可能である。
子供の成長を見ていると、毎日少しずつ自分でできることが増え、きのうまではできなかったことがきょうはできるようになっていたりして、親として子供の成長に喜びを感じ、子育ての苦労も少しは報われるということがある。
でも、反対にできることが減っていくのは、たまらなく老いの不安を感じさせられ、行く末を思うとやりきれない気持ちになる。しかも、子育てと違って、何年経てばどういう状態になるのか、全く予測がつかない。
そういう不安は、いつか必ず訪れる自分自身の老後の姿にも重なって、やりきれなさに戸惑いさえ覚える。
母は体の不調を正確に訴えることもむずかしいようである。だから、腰痛を訴えながらも、しっかりと背中を伸ばして歩いていることがある。都合が悪くなると「おなかが痛い」という子供がときどきいるが、共通した部分があるのかもしれない。「腰が痛い」という言葉には、「さびしい」、「つまらない」などの訴えが現れているような気がする。もちろん、全く痛くないわけではないようだ。
何か治療を受けても、受ける前の状態を忘れているので、「何をやっても効かない」ということになる。高齢者は、子供と違ってプライドというものがあるので、いかにうまく接するか、非常に難しい。
先々週デイサービスに行ったとき、併設されたクリニックの先生に入院させてほしいと自分で言ったというので、驚いた。痛みの除去ということ、また骨粗しょう症という診断もおりているので、その治療を行うということで、入院を承諾していただいた(このクリニックは、急性期の病院ではない)。
どう見ても、入院が必要な重篤な状態ではなく、私やデイサービスセンターの職員の方々も含めて、母が入院すると聞いて誰もが驚いた。でも、家にひとりでいるのももう無理なので、翌日、入院した。
入院といっても、病院側のはからいで、午後はデイサービスセンターでリクレーションを楽しんでいる。見に行くと、結構元気に体を動かしている(腰痛はどうしたのだろう)。自分から入院したいといってくる高齢者は結構多いと聞いた。病院に居場所を求めるのは、ちょっとさびしいのだが。
入院が決まった日の夕方、私は少々複雑な気持ちで、考え事をしながら台所で包丁を握っていた。そしたら、左手の指先をザックリと切ってしまった。
「痛い!」と思った。真っ赤な血がどんどん噴き出してくる。その血を見ていると、なぜかしら涙もいっしょに溢れてきた。母の心の痛みを感じたような気がして、しばらくの間、流れる血から目を離すことができなかった。
母は以前からずっと、自分の老後、子供に負担を掛けたくないと言っていたが、今のような状態になっても、私の家族に気兼ねで世話にはなれないと言う。
老後、娘の世話になってはいけないと思っている人は多い。しかし、息子の世話になるのは当然だと思っている人もまた多い。娘、息子、実の親、義理の親・・・みんな同じだと思うのに。
入院してからの母の表情は、家でいたときより明るいときもある。職員の方たちは、さすがにプロである。高齢者の行動や気持ちをよく理解されているようで、すぐに感情が出てしまう私なんかと違って、いつも笑顔を絶やさない。
以前、子供を初めて保育園に預けたときにも同じような印象を持った。「仕事だからできることもあります。」というひと言が、今も忘れられない。家族では気づかないことでも、他人の、特に専門家の目で見たら気づくこともあるようだ。専門家の力を借りることはやはり必要だと思う。(2003.8.3.日) |
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最近、校区内に変質者が頻繁に出没し、大変な騒ぎになっている。
主に小学生を狙ってくるのだが、中学生も連れ去られそうになったというし、被害に遭ったのは女の子とは限らないので、子どもを持つ親たちは、戦々恐々である。
学校からわが家まで、1.2kmの距離がある。通学・通勤で人通りや車の通行量が多い登校時間帯と違って、午後3時から5時ごろにかけての下校時間帯は、人通りも少なく、車で子供ひとり連れ去ることくらい、犯罪者にとってたやすいことであると思う。
ついこの前も九州で、幼い子供が中学生に殺害されるという、いたたまれない事件が起きて、子どもを持つ親たちを恐怖で震え上がらせたばかりである。
せめて何か自衛手段を取らねばと思い、私は図書館で護身術の本を借りてきて、夫をにわか仕込みの師匠(?)に仕立て上げ、子供たちに伝授させた。でも、繰り返し練習したところでしょせん子供である。いざというとき練習の成果が出せるかどうか・・・。
そんなとき、私はあることを思い出した。私も学生時代、変質者に悩まされたことがあった。女子学生の下宿が多い地域には、変質者がよく出没していたのだ。
大家さんに話すと、若い警察官がすぐに事情を聴きにきた。しかし彼は、ニヤニヤして反対に変なことを聞いたりして、真剣に話を聞いてくれなかった。
これでは話にならない。“ようし、そんなら”と思って、ある日の晩、私はビール瓶を片手に(今考えたら、なんて危ないことを・・・)、自分で「張り込み」をすることにした。(見つけたら、とっつかまえてギャフンと言わせてやる。)息を殺してじっとしばらく暗闇に潜んでいたが、妙なもので、待っていると何も出てこない。
しかしそれから何日かたった夜、浴室の中から、外に怪しげな足音を聞いたような気がした。灯りを消すと足音の主に逃げられると思い、灯りはそのままにして、音をたてぬようにそ〜っと外へ出た。
塀伝いに、足音がした方へ一歩一歩ゆっくり歩みを進めると・・・・・・・いた!学生風の若い男が塀によじ登って背伸びをして、浴室の換気口の方を窺っていた。私は思わず小さな声を出してしまった。
私の声に驚いた男は、あわてて塀から飛び降りて、一目散に逃げた。しかし・・・追っかけなければいけないのに、なんと私は男と反対方向へ、一目散に逃げてしまった。
「見つけたら、タダじゃおかない。とっつかまえて袋叩きにしてやる!」と息巻いていたのに、いざとなったら何もできなかっただけでなく、自分も逃げてしまった・・・。
少しなさけなかったけど、こんなものかもしれない。
だからというのでもないけれど、子供たちにいくら身を守る方法を教えても、いざというとき逃げ切れるかどうか、やはり気がかりでならない。 |
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投稿が趣味である私も、いろいろあって、最近書くことから少し遠のいていた。
久しぶりに新聞に投稿したものがきょう採用されたので、拙文をここに紹介させていただこうと思う。
「ケーキにこめられたもの」
おと年から昨年にかけて、身内の病気などいくつかの不幸が同時に我が身に降りかかったことがあった。
毎日気の休まることがなく、心身共にぎりぎりの状態で過ごしていた日々だったように思う。
そんなとき、親しい友人が何度か手作りのケーキを届けてくれた。かぐわしい甘い香りとなめらかな舌触りだった。
おいしかった。コーヒーの苦さと溶け合って、心の中にもやさしい甘さがひろがった。
彼女は何を思いながらこのケーキを作ってくれたのだろうと思うと、急に目頭が熱くなって、ケーキの味が少しだけ涙でしょっぱくなった。
「がんばって」という言葉がいかに私にとって辛いひと言であるか、彼女は知っていた。
言葉に代えて、こころを形にして届けてくれたのだと、気がついた。
「ありがとう。」お礼のメールを書いた。
あのときの私は、ケーキにこめられていた彼女のやさしさに癒やされ、しばし苦しみから解放されていたのだと思う。(2003.11.15)
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10月の初めにひいた風邪・・・。こじらせるというのはこういうのを言うのだろうか、いつまでもせきが残って、すっきりしなかった。
日頃は元気なわたしなのに、どうもこの頃から体調は下降の一途だった。
そういう状態が1ヶ月以上続いて、さすがの私も何か他の病気が潜んでいては・・・と思って、息子たちがお世話になっている呼吸器内科の先生に診てもらうことにした。
まず血圧を測ったが、先生が「え〜っ?!上が180もある。どうしたんですか、これ!」(どうしたのかって、それはこっちが聞きたい)。もともと、測ると思うと緊張して、高くなるときがよくあるのだと説明。でも、信じてはもらえない。
10月にここで測ったら、130-80くらいだったのに・・・と言うと、「それは“過去”の話ですっ!」。ふ〜ん、過去なの?と思ったが黙っていた。
結局、せきは昔症状が出たことのある喘息が出た疑い、ということになり、気管支拡張剤に抗アレルギー剤、そしてとうとう降圧剤までどっさり処方されることになってしまった。(もちろん(?)、降圧剤はのまずに置いてある)。
異常な数字が出たら、医師としては治療しないわけにはいかないのだろう。当然と言えば当然。「まだ倒れるには早いでしょ?」と、横目でにらまれたのだった。
そういえば、歯の治療にも行かなくてはならない。せきが出る間はやめとこうと思っていたが、待っていてもきりがないようだった。
歯医者さんに通い始めたら、今度はなぜか胸やけがするようになった。
胃なんてもともとなんともないのに、どうしたのだろう・・・とまた気になり出した。癌年齢なんだし、胃カメラのんだら?と勧めてくれる人もあり、今度は消化器内科の先生を訪ねた。
(なんか急に、病気の問屋みたいになってきた。)
この年になれば、胸やけを訴えても、さすがに“つわり”を疑われることはなくなった。一度検査しておいた方がいいでしょう、という結論。2日後に胃カメラの予約をした。
だけどよく考えてみると、胃カメラってすごくつらい検査じゃなかったか・・・。大腸ファイバーや気管支鏡などと比べたら、よっぽどましなようだけど。
何人かの人に聞いても、経験はないくせに、「あれは苦しいらしいよ」とわたしを脅す。この年になって、こわいものなんてないわと思いながら、やはり気になって、ネットで「予習」してから検査に臨むことにした。
前日の晩は、7時半頃までに消化の良い夕食を少なめに摂り、10時以降は完全に絶飲、絶食だった。検査が終わったら、あれも食べよう、これも食べよう、と、胸やけのことも忘れていろいろ考えていた。
当日の朝、検査前に血圧を測定した。130-84。(ほらネ、全く正常じゃないの)。
検査室のベッドで横になっていると、看護婦さんが検査の説明をすると言ってしゃべり出した。(なぜか、こちらを向かずに、そっぽを向いて別の作業をしながらだった。)
のどの麻酔はしないと言った。えぇ〜っ?!予習していたのと違うじゃないの。どうしてだろう。先生は、よほど胃カメラが上手なのだろうか。(ネットの情報では、そうなっていたが)
右手の指先に、何かクリップで止められた。脈の音が聞こえ出した。速い・・・。
麻酔なんかなくても、苦しいのはおんなじ、どうせ表面麻酔なんてあんまり効かないんだから、もうどうにでもなれと思って、先生がくるのを待った。
「先生が合図したら飲みこんでください。」とのこと。
ほどなく先生が「ハイ、飲み込んで・・・さぁ、はやく!」とおっしゃったが、水じゃないのにどうやって・・・?やたら苦しい!もう〜、どうしろって言うのだろう。
「もう入りましたよ。」と先生。モニター画面を見ると、確かにピンク色のトンネルの中をカメラが進んでいくのが見える。
でも、苦しくて、何度もむせ返って、涙でびしょびしょになり、モニターを見るどころではなくなった。なんでもいいから、とにかく早く終わって!と叫びたくとも言葉にならない。
「粘膜がただれているようですね。」と先生。粘膜の表面に、赤い斑点みたいなのがいくつか見えた。癌ではなかったようだ。「十二指腸までカメラを入れますね。」(えぇ?まだ・・・もういいから、早くカメラを出して。)とひたすら願った。
カメラが入っていたのは、多分5分にも満たない時間だったのだろうけど、やたらと長く感じた。終わってから、しばらくぐったりして横になっていた。とても起き上がる気力などない。こんな検査、お年寄りにはきついだろうな。私だって、ほんとに血圧が上がって、どうにかなってたかもしれない。
診察室に呼ばれて、撮った写真を見せてもらった。胃炎とのこと。悪い病気じゃないので、薬で治せるし、何を食べてもいいとのこと。
うれしくなって、先生にお礼を言った。ちょっと意地悪そうな先生のお顔が少しほころんだ。
思いっ切り苦いコーヒーを飲んでやろうと思って、その足でコーヒー豆を買いに行った(性懲りもなく)。
血圧計も、水銀式のを用意した。(2003.11.28) |
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訃報というのはいつも突然舞い込んでくるものだが、この度もやはりそうだった。
おとといの朝、出勤間近に電話が鳴った。知人のSさんからだった。
朝から沈んだ声で、「ねえ、聞いた?」と尋ねられたが、何のことかさっぱりわからなかった。
驚いたことに、私宅のすぐ近所のHさんが突然亡くなったというのだ。
彼女の末っ子のTくんは、わたしの息子のNと同級生なので、特別親しいというほどではないけど、いろいろお世話になったりしていた。
元気そうだった彼女がどうして・・・?信じられなかったが、Sさんの話を聞いているうちに、どうにもやり切れない気持ちになって、後から後から涙が頬を伝って落ちていった。
彼女はいつも家業を手伝っていたそうだが、家族が出かけている間に機械に挟まれてしまったとのことだった。
誰も気がつくこともなく、家族が戻ったときはもう・・・。
早く見つけていたら、助かっていたそうなのに。
悔やまれてならない。
ゆうべはお通夜だった。
家族の方に掛ける言葉も思いつかぬまま、とにかく夜道を急いだ。
わたしは、ほとんど街灯のない暗い道を小走りに歩きながら、ほんとにそうなのだろうか、間違いじゃないのだろうか・・・と思っていた。
でも、その思いはやはり裏切られた。暗い夜道の向こうに、ただ1軒煌々と灯りがともるHさんの家が見えてきた。
苦しんだとは思えない、安らかな美しいHさんが静かに眠っていた。ほんとに眠っているだけじゃないかと思った。声を掛けたい衝動に駆られた。でも・・・黒い枠の中の彼女が微笑んでいた。胸が詰まり、息までも詰まりそうになりながら、涙を押さえた。
彼女の忘れ形見の3人の子供たち。みんな元気な男の子だ。男の子を育てるのは、ほんとに大変だ。多分、女の子の何倍も。女の子の母親のように、のんびりおっとりしていられない。
きっと彼女も大変な思いをして、彼らをここまで育て上げたはず。
命が尽きようとしたとき、もしかしたら一瞬彼女は子どもたちのことを思ったのではないだろうか。その無念さを考えると・・・同じ子を持つ母親として、これほどの苦しみはないと思う。
末っ子のTくんはまだ8歳。おかあさんの死がよく理解できないかもしれない。いつもと変わらない彼の表情に、また胸が詰まった。こんなかわいい子から大切な母親を奪うなんて、やはりこの世に神様はいないのだろうか。
母親にとって最大の悲しみは、わが子を失うこと。そして、子どもにとって最大の悲しみは、母親を失うことだとわたしは思う。
そんな悲しみを乗り越えて、Tくんたち兄弟が、おとうさんと力を合わせて、おかあさんの分まで素晴らしい人生を歩んでくれるよう、せめて心から祈りたいと思う(2004.3.4)。 |
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ことしの春の花粉症は軽いと聞いていたが、どうもほんとうのようだ。
いつもなら今の時期、さんざんな目にあっている最中なのだけど、ことしは不思議なことに、何も症状の出ない日が多い。そういえば外へ出ても、マスクをしている人もあんまりいない。
耳鼻科の先生もヒマで、商売あがったりではないのかな、と心配してあげたくなる余裕がある。
花粉症さえなければ、春はとっても気持ちのいい季節なのに、随分損をしていると思い、これまでずっと、花粉症など縁のない人たちがうらやましくてたまらなかった。
花粉症を含めて、わたしとアレルギー性鼻炎とのつきあいは、もう20年を越えているのではないだろうか。
確か高2の頃、アレルギーの原因を調べるテストのようなものを受けた記憶がある。その結果、陽性だったのが確か「ハウスダスト」だった。
そこで、「減感作療法」というのを受けることになった。
大学病院で週に2回、アレルゲンを薄めたものを注射した。そうやって、徐々に体を慣らしていくという治療だったように思う。
いちいち学校を休んで行けないので、午前中、母に順番を取ってもらい、昼休みに自転車を飛ばして注射に行った。外来の診療が終わるギリギリの時間に飛び込んで注射を受け、また自転車で暴走して午後の授業に戻った。
もちろん学校では外出の許可をもらい、担任と生徒課長の先生に届けた上で校外へ出してもらっていた。
その当時、生徒課長のS先生は「鬼のS」という異名を取るほどのおっかない先生だったが、自分でいうのもなんだけど、わたしは比較的素行のいい(?)生徒だったので、診断書を提出することもなく、親から連絡してもらうこともなく、口頭で申し出るだけで許可をもらっていた。
実はその治療を受ける前にも、東京のある病院で診断された「鼻咽腔炎」の治療をこちらで受けるために、やはりある先生に無理を頼んで許してもらっていた。
その「無理」とは・・・授業に出られないので、授業を録音して単位をもらうという、実に勝手なことだった。
N先生という方の倫理社会の授業は、とにかくず〜っと先生はしゃべりどおしで、黒板に書く量も半端ではなかった。
いわば大学の哲学の講義のような、一方的に先生が話して書いているだけの授業だったので、わたしは白羽の矢?を立てて、N先生にお願いすることにしたのだ。
N先生はちょっと風変わりな方で、職員室に先生を訪ねると、いつも机の上には何もなく、引き出しの中は空っぽだった。遠足にでかけたとき、海岸でムシロをかぶって寝ていて、死体と間違われたなんてエピソードもあった。
でも先生は事情を理解して下さり、許可して下さった。
わたしは感謝の気持ちもあって、テストの前には倫理社会の勉強には力を入れ、まあまあの点を取ったように思う。N先生のテストはすべて記述式で、答案用紙をぎっしり埋めるのは、結構大変な作業だった。
でも、嫌いな教科である社会の科目の中でも、倫社はまだおもしろいと感じるところもあって、共通一次テストの受験科目(5教科7科目)のうちの1科目にも選択した。
話が関係ない方へそれてしまったが、とにかく今年の春は、体に関しては楽である。
いつもなら、夜中にくしゃみや鼻詰まり、のどのヒリヒリする痛みで目が覚めたり、髪をとかしただけでくしゃみが出たり、薬の副作用で眠たかったり、アルコールがほとんど飲めなかったり、ということに悩まされるのに、ほんとうにありがたいことである。
こういう症状に、1年間のうち2〜3ヶ月は悩まされていたことを考えると、うそのような気がする。
(2004.4.3) |
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先日、結構大きな台風がきた。台風が過ぎ去ったあと外へ出て見ると、いつも通る近所の見通しの悪い三叉路のカーブミラーが、柱ごと強風でなぎ倒されていた。
よりにもよって、そのことも原因のひとつとなってわが子が交通事故に遭うとは、そのときは考えもしなかった。
その日の夕方、帰宅した息子のRが、弟のNが知らない車といっしょにその三叉路にいたと知らせにきた。“普通にしていた”というので、最初何を言っているのかわからなかったが、車が・・・というのでもしやと思ってあわてて外へ出ると、知らない女性がNの自転車を運んでくるところだった。
Nは、ミラーがなかったので、左から走ってくる車に気がつかなかったと言った。しかもNは一時停止を怠り、狭い道なのにかなりのスピードで走ってきたらしい軽自動車と出合い頭に衝突、転倒したのだった。
この辺りは畑が多いので、路面にはいつも砂利が落ちていて、自動車、自転車ともに制動距離がさらに伸びてしまったようだ。
ミラーは死角があるから、NにもRにも必ず止まって直視するよう言い聞かせてあったが、絶対に言うことを聞かなかったことも原因だ(おとなでも直視しない人が多いのも事実だが)。
事故の相手方は、お年寄りの在宅介護に巡回しているホームヘルパーの女性だった。時間に追われて、普通なら時速20キロくらいで走行すべき道を、ブレーキ痕から見て、どうも時速40キロくらい出していたようだ。
事故現場で、持ち合わせていた薬ですぐにNのすり傷を消毒してくれたという。彼女はすぐ勤務先に指示を仰いだらしく、とにかくNを病院へ連れていくことになった。 |
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「弱り目にたたり目」という言葉がある。
先週末、不覚にもけがをしてしまった。
自分の気持ちを無視した選択をしたあとで、言いようのない虚無感にさいなまれていた。
激しい雨が降っていた。上の空で坂を歩いていて「あっ!」と思った2分の1秒後くらいに、頭を打つ鈍い音を自らの耳で聞いた。すぐに立ち上がろうとしたが、頭と腰が痛くて動けない。痛みのせいというより、自分のすべてが情けないような気がして、涙がこぼれた。
ほんの少しの間、そのまま座りこんでいたが、こちらの様子を気にしている人の気配を感じて、やっとのことで立ち上がってゆっくり歩き始めた。
左腕を、生温かいものがスーッと伝っていって落ちた。路面が少しだけ赤く染まって、ほどなく雨に流れた。
病気はともかく、子供じゃあるまいし、不慮のけがなどというのものは自分には関係ないことだと思っていたが、そういえば、ついこの前も家の階段から落ちたばかりだった。
どうも、あまりよくない精神状態が、体を無防備にしているような気がする。
そういえば、乳幼児や老人は、家庭内の事故でけがを負ったり、ときには命さえ落とすことが非常に多いという。案外身近なところに、危険が多く潜んでいるようである(2004.7.17)。 |
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わたしは、インターネットを常時接続にした3年前からメールを使うようになり、これまでずっと、これほど便利でしかも楽しいものはないと思ってきた。
メールを始める前は、友人・知人とのおしゃべりは専ら電話だった。お互いに相手の時間の中に突然踏み込んで、いつの間にか長い時間を占領してしまっていることが多かった。当然、電話を掛けてこられる方は、そのときやっていたことを中断せざるを得ない。眠りを妨げられることもある。
しかしメールだと、受信したからといって何もすぐに返信する必要はない。真夜中に返信してもどうってことない(携帯メールだと、着信音が鳴ることは考慮する必要があるけれど)。
電話と違って内容も記録に残せるので、業務連絡にもとても役に立つ。手紙のように便箋や封筒、ペンもいらない。字がへたでもわからない。
でも・・・メールには大切なものが欠けている。最近それに気がついた。
それは、こころ。
文章を書くという点から言えば手紙と同じかもしれないが、やはり手紙には書く人の心がこもっている。たとえへたでも、一字一字に書き手の気持ちが表れている。なつかしいひとの筆跡を見て、ほっとすることもある。
だけどメールにはそれがない。どんなに美しい言葉で飾られていても、それを書き手がどんな顔で、どんな表情で、どんな気持ちで言っているのか、読み取ることはできない。
こちらは相手をほめたつもりが、皮肉と受け止められていたり、軽い冗談がひどい侮辱と感じられたり、ついはずみで出てしまった言葉が、そのまま一人歩きして物別れになってしまったり・・・そんなことでネット上の掲示板などでは喧嘩になることもしばしばであるという。
最近起きた、小学生の女の子が友人を切りつけて死に至らしめた事件も、それがことの発端であったという。もちろん、子どもだけに限られたことではない。
それに手紙は、よく考えて書くものだと思う。書き終えたら読み直し、また書き直したりということもあるだろう。
一方メールは、書きっ放しで送ってくる人が多い(わたしも時々そうしてしまう)。読み直してまた考え、加筆・訂正した形跡などない場合が多いように思う。
では、メールはやめるべきだろうか・・・。
決してそうではない。気心知れた、メール以外での付き合いも多い相手となら、ほとんど誤解や行き違いを生じることはないと、経験から思う。たとえ、疑問を感じる言葉が書かれていても、相手の性格や考え方などをよく知っていたら、大した問題にはならない。
でも、まだよく知らない相手や、或いは会ったことすらない相手だと、そういう場合、真意を汲み取るのは非常に難しいのではないだろうか。疑問点を指摘するとますます混乱を深め、修復不可能になる。
絶対失いたくないひととは、メールのやりとりはしない方がいいかもしれない。
きょうの新聞の社説にも、ネット社会の盲点について書かれていた。
“便利な反面、相手の表情が見えないために感情が暴走し、ブレーキがかからなくなるネットの負の側面。事件(小学生女児殺害事件)はそうした危険性を大人社会に突き付けた・・・・・”
“携帯電話やインターネットでの会話ばかりしていては、人との生身のコミュニケーションは困難”
また、財団法人インターネット協会が作った「インターネットを利用する子どものためのルールとマナー集」には、わかりやすくこう書かれている。
“(電子メールやチャットは)声や表情が伝わらないので、話したい内容が正しく伝わるように充分に注意しなければなりません”
”(友だちからのメールを読んで嫌な気分になったときは)言い返すような内容の返事を出さないようにしましょう。けんかしてしまったら、二度と仲直りできないかもしれません”
ネットは、通信のほんの一手段に過ぎないことが、最近改めて身をもってわかった。もどかしさを感じた。
ネット社会に翻弄されないように、人間らしい心を忘れないでいたい(2004.7.19)。 |
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評判はイマイチだが、これから現場検証をするのに時間を取られることも考えると、近くの病院へ行くことしか思いつかなかった。
診療時間の終了から、既に20分過ぎていた。いつもの先生は、脚の傷の手当てをしてくれた。すり傷と打ち身で、全治1週間という診断。このくらいで済んで、まだ不幸中の幸いなのかもしれない。
右足の脛のあたりが結構腫れて痛むようだった。Nは顔をしかめていたが、さすがに泣くことはなかった。
一旦病院の外へ出たのだけど、事故の相手方の職場から駆けつけた男性職員の強い申し出で、あすの朝、脚のレントゲンを撮ることになった。脚よりも、頭を打ってないか心配だったが、先生はNが「打ってない」というのをそのまま信用し、頭に外傷がないかなどを調べてくれる素振りもみせなかった。
事故の相手方で、車を運転していた女性は、Nが自転車ごと車の下に入ってしまったように見えたというので、頭を打った可能性もゼロではないとわたしは思ったのだ。
子どもというのは(大人もある程度そうだが)、一瞬のことで動転してしまうと事実を誰かに伝えるのがむずかしくなり、だいぶあとになって、思い出したように話し出すということもあるのだ。
現場検証が終わると、もう20時近かった。
翌朝、脚のレントゲンを撮るも異常はなく、次は保険会社との交渉となったが、今回のような人身事故でも、物損事故として警察で処理してもらえば、加害者は減点などのおとがめは一切なしということになると聞いた。
こちらに何か不利益があってはいけないと思い、わたし自身が加入している自動車保険の代理店にも念のため相談し、今後の対応や相手方との交渉のポイントなども教えてもらった。
それから数日が経過し、こわれた自転車も新しくしてもらい、けがの方ももう大丈夫だろうと思っていた。
ところが、事故からちょうど1ヵ月後の7月22日の夜、Nは急に頭痛を訴え、嘔吐した。日頃頭痛など訴えたことのない子であるし、事故のことがわたしの頭をかすめた。
早速翌日、以前掛かったことのある、脳神経小児科が専門の先生がいるクリニックを訪れた。
先生は、やはり確実な診断はCTなどを撮る以外ないと言われたが、被爆のことが心配だと告げたら、それでも今すぐ撮るようにとは言わなかった。
わたしは、万一脳に出血などがあれば、今後どんな症状が出るのかを先生に尋ねた。先生は、今回のような症状(頭痛・嘔吐など)が続くと答えてくださった。事故から最長3ヶ月くらいは気をつけておくように言われた。
それなら、そういう症状が今後出なければ、ほとんど心配はないと考えていいのだろうかと聞くと、そう考えていいでしょうとのことだった。そして、万一今回のような症状が再び出てからCTを撮るなどの検査をしても遅くはないということも確認した。
やっと少し安心できたような気がして、わたしとNはそのクリニックをあとにした。
(2004.7.22) |
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20年近く車に乗っていても、幸いわたしは、走行中にこれといった大きなトラブルを起こしたことはなかった(H社の、欠陥部品を3つも搭載(?)していた車のときは別として)。
一度だけ、朝出かけようとしたら前輪がパンクしていたことがあったが、タイヤは、1本約10分で自分で交換できる。パンクしたのが駆動輪であるので、万全を期すために応急用のスペアタイヤを後ろに履かせて、パンクしてない後ろのタイヤを前に入れ替えて、ちょうど20分で作業は終わった。
それが確か5年くらい前だった。
しかし「2度目のトラブル」が、8月5日の夕方起こった。
父の形見のエスティマ・エミーナで外出して帰宅した。わが家の前の道路は、建築基準法でいういわゆる「二項道路」で、道幅が2.8メートルしかない。道の両側は畑で、車が曲がるときに畑に入り込まないように、角のところに、大人の頭よりひと回り大きいくらいのゴツゴツした大きな石が置いてある。
そういう場所で、車体が大きくホイールベースの長い車をバックさせて庭に駐車させるのは、少々骨が折れる。
わたしは最近体調を崩し気味で、しかもあちこち出かけたあとでちょっと疲れていたのだろうか、バックするときに、ちょっと畑の方へ寄り過ぎてしまった。右後輪にその大きな石が当たったような感触があった。
無精しないで、一旦前進して切り返せばよかったのだが、乗り越えられそうな気がして、そのままバックしたら・・・動かなくなってしまった。
アクセルを吹かしても、摩擦でタイヤが焼け焦げる臭いと煙が立つだけ。
最初は、砂地の畑にタイヤが埋まったのかと思ったが、そうではないことに、その臭いと煙で気がついた。
右後輪のすぐ横に石が噛み込んでしまっていた。
そんなら、と思って、早速、後輪部分をジャッキアップすることにした。脱輪などしたときでも、ジャッキアップすれば脱出できる場合もあるということは、知識として持ち合わせていた。
しかしこの車、ジャッキはどこにあるのだろう・・・。完全に道を塞いでしまっていたので、探す時間も惜しく感じて、仕方なく別の車のジャッキでジャッキアップしてみた。
でも、車の重量があまりに違うのでうまく上がらず、わたしは、砂だらけになって石のそばを掘って石を動かすことも試みたが、どうにも重くて動かなかった。
交通量の少ない道ではあるけど、いつまでも通行を妨げたままにしておくわけにもいかないので、私は諦めてJAFへ救援コールをして、外で到着を待っていた。
そこへ、海岸の方から1台のトラックがやってきた。「ご覧の通りなので、申し訳ないが迂回して欲しい。」と頭を下げて頼んだ。
その車には、30代くらいと40代くらいの2人の男性が乗っていた。
声を掛けたのに、一向に車を後退させようとする気配がない。
ほどなく2人とも車から降りてきた。わたしのそばへ来たので、どうもジャッキが小さくてうまく車体が上がらないのだと話した。
そしたら、トラックから別のジャッキを降ろしてきて、なんと脱出作業を始めてくれたのである。車体はス〜ッと持ち上がり、後は石をどかすだけだった。
ジャッキアップした車の下へ潜り込むことは、非常に危険である。しかし、大きなスコップも何もないので、石をどかす道具に困った。40代くらいの方の男性が、子供のホッピングのおもちゃを見つけて、それで石をどかそうとしてくれた。
ものの1分くらいで石をどかすことができ、車はみごとにスタックから脱出できたのである。
そこへちょうど、JAFの車が到着した。
危険を伴う作業であったにも関わらず、見も知らぬ人たちに迅速に救出してもらって、感無量だった。名前を聞いても教えてくれなかったので、後日運輸支局で調べることにして、お茶を飲んでもらったあと、お礼だけ言って見送らせてもらった。
困っている人に出会っても、見て見ぬふりということも多い世の中だけど、ほんとうに親切な人に出会って、感謝の気持ちでいっぱいになった。
あとで車の説明書を見ると、ジャッキは意外にもすぐに取り出せる場所に格納されていた。落ち着いて探せばよかったのに、やはりちょっと気が動転していたのだろうか。 車に合ったジャッキさえあれば、自分で解決できたかもしれないと思うと、ちょっとくやしかった。
(2004.8.29) |
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