春が来て、少しずつだが暖かくなって桜の便りも聞くようになると、去年の悲しい春を思い出して、たまらなくなる。
満開で美しいはずの桜も、死の恐怖と向き合っている者やその家族にとって、果たして慰めになると言えるのだろうか。それどころか、美しいがゆえに哀しい。世の中には、こんなに美しく咲く花があるのに、どうしてこんなに残酷な運命を背負わされた人たちがそのすぐそばで闘っているのだろう。ここへ桜の木を植えた人は、いったい何を思ってそうしたのだろう(病棟の横に咲く桜を見てそう思った)。
春は桜。最後の桜を見ることを拒否しつつ逝った父。父の苦しみ。痛みと苦しみから解放された父。春めくほどに苦しさが増した日々・・・。言い様のない悲しさとくやしさをどこにもぶつけることができない、残された者。春なんか大嫌いだ。 |
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今年も、桜の開花は例年より早いらしい。
去年の春も、3月の終わり頃にはもう満開だった。
父の病棟のそばにも、桜の木があった。病棟の陰に隠れてあまり日当たりも良くないのに見事に咲いていて、父の病室の洗面台の前に立つと、少しだけ見ることができた。
「きょうはあまり痛みがない。」
と言って、父が明るい表情をしている日があった。珍しくベッドから降りて洗面台の鏡をのぞいていたので、
「おとうさん、そこから桜が見えるよ。」
と私は言った。しかし父は、
「最後じゃないから見ない。」
と答えたのだった。
私だって同じだった。父が桜を今年限り見ることができなくなるなんて、これっぽっちも思ってなかったし・・・思いたくなかった。1ヶ月前に肺転移が見つかり、あと数ヶ月の命と宣告されていたが、私は自分がそれを信じることを許さなかった。
医者の話は一般論なのだ、父は違う、父だけは特別なのだ、といつも自分自身に言い聞かせていた。きっと何か治療の方法がある、必ず見つけて父にもその治療を受けさせるのだと、私は毎夜インターネットと本だけを頼りに情報収集をし、隣のお寺の一番どりが鳴く頃、寝床へもぐり込むという生活を続けていた。
今年ももうすぐあの桜の木も花を咲かせることだろう。でも、多分これからもずっと、私は桜を美しいと思って眺めることはないと思う。 |
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教師だった父にとって、晩年の数少ない楽しみのひとつは、同窓会に出席することだった。新任で赴任した I 校以外ではずっと進路指導を担当していたので、担任として生徒を受け持ったのは、I 校だけだった。
確か、父が2度目の手術を終えてしばらくたった2月のある日、5月の連休中に開かれる「還暦同窓会」のお知らせが届いた。リンパ節の郭清をして、ベッドから降りることもままならぬつらい状態のときだった。
返事を投函してくるよう言われて葉書を受け取ったが、どんな返事をしたのかやはり気になって、後でそっと裏返して見ると、「出席」に○がつけられていて、空欄には「今は入院中ですが、必ず完治して出席します。」と書かれていた。
うれしかった。父はこんなにつらい状態でも投げやりにならず、還暦を迎えたかつての教え子たちとの再会を果たそうとしている。
前向きな父の姿に、敬意にも似た気持ちを抱いた。
しかし、3月に入って3度目の手術で植皮に失敗してからだったか、同窓会は無理かもしれないと自分から言うようになった。私は、父を車に乗せて会場へ同行し、たとえ短時間でも教え子の方々とのひとときを過ごさせてやりたいと思っていた。
ところが、同窓会が開かれる数日前から父の容態は目に見えて悪くなり、出席はかなわぬこととなってしまった。
同窓会当日と翌日、教え子の方おふたりと、昔 I 校で共に同学年を担任されていたT先生がお見舞いに来てくださった。
教え子の I さんは父の手をお取りになり、涙を流されて「先生!先生!」と何度も声を掛けて下さった。眠っていた父が目を開けて小さくうなずき、微笑んだ。かつての教え子だとわかったのだろうか、父は I さんの手を握り返した。
私は溢れる涙を拭うこともできず、父と I さんの姿をただ見守るだけだった。
ずっと後でT先生にお聞きしたのだが、T先生と父は初めて会ったのも病院だったそうである。
父は20代のとき結核に罹り、一度再発もしたと聞いている。二度ほど入院したようだ。そう言えばこの度の入院中、結核のときはじっと寝ているだけでよかったのになぁ、とつぶやいたことがあった。当時は結核で命を落とす人も多かったが、父は死んでなるものかと、気力で生き抜いたのだと以前母から聞いた。
当時入院して休職していた父を、新しく I 校へ赴任してきたT先生があいさつがてら見舞って下さったとのことである。初めて父に会ってくださったのが病院で、おまけに最後もまた病院とは、なんとも悲しいめぐり合わせである。
若く希望に溢れた日々を過ごした I 校での何年間かは、おそらく父にとって生涯忘れられない年月であったことだろう。父は同窓会に出席する度にその頃の自分に戻り、多くの教え子の方々と楽しい思い出を分かち合ったのだと思う。
ちょうど私が生まれた年の3月に I 校を卒業されたUさんという方が、こんな話をしてくださった。
同窓生が何人か集まったとき、ある女性が私の名前を憶えていて下さったそうで、私が生まれたときの父の様子までも話しておられたらしい。
父は私の誕生をとても喜んでいて、何かいい名前はないかと生徒たちの前で言ったという。父はもともと男の子が欲しくて、男の子の名前はふたつも考えていたということは、後になって私も聞いた。
私が男であれば「匡(ただす)」、姉も男であれば「嘉(よみす)」という名前になるはずだった。
私は父にとって2人目の娘なので、どれだけ父を落胆させたことだろうと、これまでずっと申し訳ないような気がしていただけに、父が私の誕生を喜んでいたということを知って、感無量だった。
Uさんは、まだご自分が若かった時にお母様を亡くされたそうで、そのときの今もって忘れられないお気持ちを私にお話しくださり、私の深い悲しみを共有し、心から慰めてくださった。
そして、同窓会での父の様子もお聞かせくださった。父は、皆さんの前で歌を歌うこともあったらしいが、一度もその歌を聞いたことがなかった自分が少しさびしかった。
父は、5月に入って次第に眠っていることが多くなったが、ある日、急に何か歌を口ずさんで周りの人たちを驚かせたことがあった。ちょうど私がそばにいなかったときだった。何の歌なのか誰にもわからなかったそうだが(同世代の人が歌を聴けば、わかったかもしれない)、後でUさんの話を聞いて、それはきっと同窓会の夢を見ていたのに違いないという確信を持った。
最後の最後まで、父は生涯の宝とも言える教え子の方々との思い出の時間を、夢の中で共有し続けることができて、教師としてしあわせな人生を送ることができたのかもしれないと、今になって、やっと少しだけ思えるようになった。
父は、同窓会での楽しい時間を過ごさせていただけることを「教師冥利に尽きる」としみじみ語っていたことがあった。そして私は、父が亡くなってなお私に温かい励ましを与え続けて下さる教え子の方々や先生方がおられて、「教師の娘冥利に尽きる」と思うのである。 |
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父は、車が好きだった。
初めての車は、キャロル。私も、まだ赤ん坊だったころから乗っていた。
車のNOは「21-17」。薄黄緑色のボディ。エンジンの音も覚えている。走ると、“キャラキャラキャラッ”とかわいい音がしていた。当時の軽は排気量360CCだろうか・・・エンジンは何気筒だったのだろう。
(と思ってちょっと調べてみたら、なんと4気筒だった!
http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/denkai/denkai/caroru/caroru.html
10何年か前までは、軽のエンジンは2気筒が中心で、そのあと3気筒がメインになってきたが、今でも4気筒を搭載している軽って、あんまりないように思う。)
父は車いじりが好きで、わたしは物ごころついた頃から、よく父の横でエンジンルームの中なんかをのぞいたものだった。
それから何台かの車を乗り替えて、最後に乗っていたのは、H8年式のトヨタ エスティマ エミーナだった。腰痛持ちの母が、横になったまま移動できるようにと、車内が広いワンボックスカーにしたのだった。
昔、父は、キャンピングカーに母を載せて、あちこち旅してみたいと言っていたことがあった。
旅こそできなかったが、あちこち通院していた母を乗せて、父はよく車を走らせていた。
入院してからも、父は車のことを気にしていた。ときどきわたしがエンジンを掛けていたが、入院して3ヵ月後の2月半ば頃に、とうとうバッテリーが上がってしまった。
そのうちなんとかしようと思っているうちに、父の病状は悪化し、わたしも車どころではなくなってしまった。
もう一度ハンドルを握りたかった父。退院するときは、自分で荷物を運ぶなどと言っていた父(実際、7年前の入院のときは、病院に置いてあった自転車で一旦帰宅し、車を運転して病院へ戻り、荷物を載せて退院したと言っていたように思う)。
動かなくなった父の車は、車庫の中でひっそりと父の帰りを待っていた。
しかし・・・父は二度と運転席に座ることも、ハンドルを握ることもなかった。
わたしは、運転席に花を飾った。そして手を合わせた。車の中に、父が生きていると思った。父が聴いていたリチャード・クレイダーマンのCDが、ポール・モーリアのテープが、そのままになっていた。
ダッシュボードの中から、高速道路のレシート、立ち寄った観光地のパンフレット・・・いろいろなものが出てきた。わたしには、レシート1枚捨てることすらできなかった。すべてのものに父の存在を感じ、運転席には、まだ温もりが残っているような気がした。
父の四十九日もまだ過ぎていない暑い日の朝、何かの用事で、たまたまわたしは実家を訪れた。そしたら、なんと午後から父の車をディーラーが引き取りにくるというではないか。
大切な父の車を・・・どうしてそんな話になったのだろう。車検証もディーラーが持ち帰っているという。
わたしは急いで電話を掛けて、担当者と話をした。
四十九日も過ぎていないうちから、何をやっているんだ。他の誰が言ったのか知らないけど、今すぐ車を処分する気などない。「そんなら、いつならいいのか」と相手は食い下がってきて、少しの間口論したが、わたしは振り切った。
とにかく今からすぐ、5分で車検証を取りに行くからと言って、電話を切った。
わたしは、ほんとうに5分で着いた。担当の営業マンは、店頭に出てきてこちらを待っていた。
いろいろ話をして、最後に彼は「手放さずに、このまま続けて乗るのがいいかもしれませんね。」と言った。
この男も、車を扱う仕事をしているからには、車が好きなのだろう。わたしはそう思った。
(それにしても、この日よく実家へ行ったものだとあとから思った。)
誰か大切に乗ってくれる方がいれば、父の車を譲ってもいいのではないかとも思った。しかし・・・結局、わたしが引き取ることにした。母に代価を払って。
自宅に3台目の車を置くゆとりがないので、ベランダの支柱を1本切る工事をした。
父が亡くなってから半年も経って、やっとJAFを呼んで、エンジンをかけてもらった。
力強くセルが回って、一発でエンジンが始動した。マフラーが煙を吐いた。その音を聞いて、涙が出た。父が、息を吹き返したような気がした。
そのまま残っていたCDを聴きながら、ハンドルを握った。エンジンの吹け上がりもいい。感無量だった。父がハンドルを握って眺めた風景が見えた。 |
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父が旅立ったあと、季節はすぐに変わった。
暑い夏の夜、蒸し暑い風を感じながら、やり場のない気持ちをこめて、短いエッセイを書いた。ちょうどエッセイを募集していたので、何気なく応募した。
秋になったある夜、入賞を知らせる主催者からの電話があった。天国の父からの贈りものかもしれないと思った。
そして翌月の終わり頃、隣県で表彰式があった。わたしと同じような・・・いや、もっともっと悲しい体験を綴ったエッセイを書いたひともいることを知った。わが子に先立たれるという、この世で多分最大の悲しみ・・・。
みんな、書くことで、思いを吐き出すことで、悲しみとまっすぐに向き合い、乗り越えようとしているのだと思った。
去年の秋、父が入院した。
入院すると、どうしても電話連絡が難しくなる。忙しい看護婦さんに頻繁に取次ぎを頼むのは気の毒だし、父の病室は公衆電話から遠かった。
そんな時、PHSの電波は弱いので、医師や看護婦さんも院内で使っているという話を思い出した。父は個室に入っていたし室内で医療器械等も使っていなかったので、問題はなさそうだった。
しかしもともとメカに強い父でも、高齢で病床に就いているとPHSの扱いは面倒そうだった。
それでも手術後あまり動けなくなってからは扱いにも慣れ、重宝していた。
病室で独りで寝ている父には、着メロが鳴るのが待ち遠しかったのだろう、いつも着信音が1回鳴っただけで取ってくれた。
見舞いに行けない日には、何回となく掛けておしゃべりした。
「ちゃんとご飯食べた?」とか、「傷は痛まない?」とか、いつも同じような会話だったが。
通話料金を気にするので、病院までのガソリン代と駐車料金より安いよと言うと、「済まないな」と言って少しだけ笑った。
入院してから2回季節が変わり、父は何回か着信音が鳴らないと取れないことが多くなった。
そして、3回季節が変わろうとした頃、とうとう受話器の向こうから父の声は聞こえなくなってしまった。
「おとうさん、天国ではもうPHSを手に入れた?また掛けるからね。」
PHSのお陰で、父に残されていたわずかな貴重な時間を少しでも長く共有することができ、今も感謝している。
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