父の闘病記7(化学療法) 

変化

 翌日3月2日(土)の朝5時過ぎ、私は短い眠りから覚めた。ゆうべの話は、悪夢ではなかったのかと思った。毎朝目が覚めると、必ずそう思う。悪い夢を見ただけではないのだろうか、父は今までどおり元気で家にいるのではないかと。

 とにかく、早く父の顔が見たかった。
 行ってみると、いつもより痛みが少ないそうで、右を向いて寝ているので、びっくりした(臀部の傷は、右寄りにあったので、今まで右には向けなかった)。

 歩行器を使って階下へ降りて行き、郵便局と売店の前まで歩いたので、少し疲れたという。追加したという鎮痛剤が効いているのだろうか。いや、もしかするとAHCCとサメ軟骨が効いてきたのかもしれない。ゆうべ、あんな話を聞かされたばかりなのに、父にはきょう少し笑顔があった。
 耐え難い痛みというものが、どれだけ人間を苦しめ、笑顔を奪い、死を身近に感じさせるものであるか、自ら体験しないと、とても想像できるものではないと思う。

 父には、どこか他の病院へ転院したいという気持ちもあった。紹介状はもらえるだろうかと心配したりしていた。でも、転院するということは、この地を離れるということである。
 しかし、今の状態で、遠方の転院先へ移動することがもしできたとしても、私が付き添っていく間、子供たちや母のことを託すことができる人がいない。それに第一、引き受けてくれる病院があるだろうか。もしあったとしても、どんな治療が受けられるのだろう。もしまたこちらへ帰ってくることになった場合、受け皿があるだろうか。

 以前から、地元の病院で治らなければ、県外へ出向いて行くこともいとわぬ父だった。
 私がまだ小学生だった頃、何やら原因のはっきりしない頭痛に悩まされるようになった。どこを調べても異常はなく(でも、なぜか脳外科へは行かなかった。)高校生になってもまだ頭痛は続いていた。
 子供の体調が良くないことは、親にとって自分のこと以上につらいものである。私も自分が子供を持って、それが初めてよくわかった。

 私はその頃、高校生の女の子らしくもない、健康の雑誌ばかり読んでいた。自分の頭痛をなんとかしたかった。
 高2の夏、保健同人社のある雑誌で、東京のある病院で「鼻咽腔炎」(正式な病名だったかどうかはっきりしないが)という病気の治療を行っていて、全国から多くの患者が殺到し、治療に当たっておられた先生が倒れてしまわれたという記事を読んだ。
 保険外診療だったし半信半疑だったが、両親に話すと、父が早速仕事を休んで私と共に上京してくれた。都内に部屋を借りて治療を続けている人もいたが、診てくださった先生が、ちょうどこちらの地元の先生の名前を覚えておられて、相談するよう勧めてくださった。

 お陰さまで、私の7年来の頭痛は、うそみたいに治った。全く信じられない気持ちだった。


 AHCCとサメ軟骨を出してもらっている○○先生のところへ、一度父を連れて行きたかった。他に、意見を求める医師はいない。しかし、父はどうしても行こうとしなかった。もちろん、痛みのせいで動きたくないせいでもあったはずだが。

 父は、この日から急に、食べたいものをいろいろ言うようになった。塩辛いものが好きなのだが、血圧がやや高めなので、ずっと食べずに辛抱していたものがいろいろあった。備え付けの冷蔵庫はあまりに小さかったので、私はクーラーボックスを持ってきて、父の好物をいっぱい詰め込んだ。少しでも食欲が出て、体力が維持できればと思った。

 またその翌日頃から、父はなぜか急に、無駄なお金を使うのがもったいない、入院費用も無駄だ・・・みたいなことを言うようになった。
 
 3月1日の夜を境に、父も私も変わった。たとえ1分でも2分でも、貴重な時間だった。私は、一旦帰宅してもまた父の顔が見たくなって、再び出かけたりするようになった。
 親子で互いに相手を思いやり、だまし合い、だまされ合っていたのかもしれない。

 父は、この頃から電話を取るのが少しだけ遅くなったように思う。ずっと、呼び出し音が1回鳴るだけで取ってくれていたのに。

 5日に教授回診があり、抗癌剤を動脈注射で入れるのが最も効果的だと言われたらしい。使用する抗癌剤は、後に、ペプレオマイシンの代わりにアドリアマイシンになったと聞いた。
 ほんとうに化学療法を受けるのか、いったいいつになるのか・・・日が決まるのがこわかった。



ひとすじの光が・・・

 息子のRが熱を出して、父のところへ行けない日が2日続いた。3日目となってしまう3月6日、病気の子に無理をさせるのは親として失格なのだが、止むを得ずRを車の中で寝かして、○○医院と父の病院、それにストマの装具を扱っている医療器械店へ 出かけた。

 ○○医院では、なぜかサメ軟骨はやめましょうと言われ、代わりに「△△ジュース」と「□□水」が出された。支払額は、両方で1万円を軽く超えた。サメ軟骨をたった1週間でやめるのはどうしてなのだろう。合点がいかぬまま、ひとまず父に渡してきたが、帰宅してから調べてみても、どうも正体のはっきりしないジュースと水だった。
 
 夜、父に電話すると、やはりそれらを飲むことには抵抗があるようだった。でも、「○○(私の名前)が一生懸命やってくれてるのだから、言われたとおり飲む。」と言った。
 これはいけないと思った。義理を感じて飲むということは、父の負担になってしまっているということだ。しかも、さらにいろいろ調べてみても、癌に効果があるようなものではなさそうだった。

 4日後の3月10日の夜、私はそのジュースと水を捨てた。サメ軟骨とAHCCは、ネット通販で手に入るので、このまま続けることにした。何か前向きにやれることがないと、どうにかなってしまいそうだった。○○医院へ行くのは、もうよそうと思った。

 その日の父は、かなりひどい痛みを訴えた。「麻薬を打ってほしい。」とまで言った。そして、「○○(私の名前)にだけ言うけれど」と前置きして、「もう駄目かもしれない。」とまで言った。私は「そんなことない。まだまだこれからよ。」と答えたものの、言葉が続かなかった。
 ゆうべ調べた温熱療法と化学療法の併用のことを話したが、聞いていないようだった。

 父は「1日に1回来てくれたら慰められる。」と言ったが、あすは来られるだろうか(息子のRの熱がまだ下がらない)。

  翌日3月11日、やはり息子のRはよくならず、私は夫の帰りを待って、夜父のところへ行った。
 きのうとはうって変わって、父は痛みが減ったと言い、うれしそうな表情だった。私も、とてもうれしかった。傷もきれいになってきたと言われたらしい。
 
 父は、珍しくベッドから降りていた。入院のとき荷物を入れてきた大きなカバンを取り出したり、鏡の前で「散髪しようかな。」と言ってみたり、ラジオも聴くことにするから電池を買ってきて欲しいと言ったり、きのうまでの父とはまるで別人のようで、私はただただうれしかった。
 「今飲んでいるもの(AHCCとサメ軟骨)が効いてきたのかな。」とも言った。きっとそうだ!AHCCは、飲み始めてからもうすぐ2ヶ月になる。

 悲しみはいつもの何倍もに感じるが、喜びはさらにその何十倍もに感じる。父の笑顔を見るのは何十日ぶりだろう。笑って話などしたのは、ほんとに久しぶりである。
 父の携帯ラジオを、いいラジオだと言うと、「退院したらあげよう・・・いや、新しいのを買ってあげよう!」と言ってくれた。そして、「退院のときは、自分で荷物を運ぶぞ。」とも言って、明るく笑った。
 「きっとこのまま回復に向かいますように。」と私は祈るような気持ちだった。癌に向かって、「そこにいてもいいから、もう少し小さくなってじっとしていて。」と心の中で願いをかけた。

 これで終わったとは思えないが、かすかな、ひとすじの光が見えてきたような気がした。

 しかしその夜、父は自分が何者かにさらわれる夢を見たという。はっと目が覚めてあたりを見ると、いつもの病室だと気がついたが、しばらくの間眠れなかったという。ちょうど看護婦さんが見回りにくる時間で、どうしたのかと声を掛けられたという。
 思うに・・・これはきっと、「迎え」は来ないということなのだ。さらわれずにすんだのだから。これで乗り切れる。そう思う。(つづく)

 ここまでで、私が父の闘病を記した1冊目のノートは終わっている。
 



経過

 平成14年3月13日(水)になって、とうとう抗癌剤の動脈注射を行う日が決まった。息子Nの幼稚園の卒園式の日と同じ、3月19日(火)だった。

 抗癌剤について、さらにいろいろ情報収集したが、調べれば調べるほど心配は増した。アドリアマイシンは心臓に重大な影響を及ぼすこともあるそうで、あす心エコーの検査を受けておくことになっていた。
 主治医の先生に、制吐剤は抗癌剤の投与前に使うのかどうか聞いたり、付き添いのことを聞いたりした(卒園式の時間と重なると、ちょっと困ったことになると思った)。

 父は、自分が体を動かすのがつらそうなのに、私に「体は大丈夫か?顔に疲れが出ている。」と言ったり、「子供は元気か?」と言ったりして気遣ってくれた。
 母から電話が掛かってきた。母は半泣きのようで、父が母を励ましていた。「私は大丈夫だから」と言って、抗癌剤のことは「癌の疑いがあるから使うらしい。」と話していた。励まされる側であるはずの父が、懸命に母を力づけていた。
 かわいそうな父・・・・。母もまた・・・。

 父は、自分がやり残している“あること”について触れた。きちんとしておかないと、死ぬに死ねないと言った。私は、そんなこと後でいいからと言っておいたが・・・父はもしかすると「身辺整理」にかかっているのだろうか。
 
 父は、痛みの感じが今までと違うような気がすると言ったが、どう違うかはっきりしない。痛いようなかゆいような感じだと言う。鋭さがなくなってきたとも言うが、いい傾向とみていいのだろうか。

 ずっと普通食だったのに、どうも食欲が落ちてきたようで、うどんが食べたいと言い出した。作って食べさせると「おいしい!」と言って食べたのでほっとした。

 父は、歩行器なしで、湯沸かし室までゆっくり歩いたりしていた日もあったが、痛みはどうなのだろう。

 年度末が近づいて、新聞に、教職員の人事異動が発表された。父は、退職・栄転する元部下に葉書を出すから用意するようにと言ったりして、わりと元気そうな様子だが、抗癌剤で駄目になりやしないかと心配である。

 「サーモトロン」という治療装置を使っての温熱療法(ハイパーサーミア)についての問い合わせをしていた近県のある病院から、さっそく返事のメールが届いた。丁寧な返事で、紹介があれば治療してくれるとのことだった。
 一度電話をとのことだったので掛けてみたら、植皮できていない傷の写真を撮って送るようにと言われた。この病院では、癌の治療にサリドマイドも使っているとのことだった。
 メールで受けた印象と、電話での印象がかなり違う感じがして、結局私は他に同じ問い合わせをした病院からの返事を待ってみることにした。

 父は、母の40年来の腰痛をなんとかしてやってくれと言う。
 おまけに、姉までもが体調を崩したらしく、母が「○○(私の名前)にはもうこれ以上頼めない。」と言って、父に電話してきたらしい。しかし父は動けないのだから、私がやるしかない。

 またひとつ難題が増えてしまった。こうなったら、自分自身の精神力と体力を信じるしかなかった。



抗癌剤投与

 シスプラチンの動注を行う前日の晩、私は放射線科の先生から治療についての説明を受けた。内容は次のとおりである。

1.方法    
 
 両門前盤動脈動注(両門大腿動脈を穿刺、カテーテルを挿入し、両門内腸首動脈より薬を注入する。)

 1時間くらい時間をかけて、1kg当たり(体重?)100mgを投与する予定。

2.問題点   

・ 血栓症(カテーテルは“異物”なので、血流が悪くなり、血液の塊が付いたり詰まったりしやすくなる。動注後、穿刺した部分に重しをかけるので、動脈だけでなく静脈も押さえてしまうため、血流が悪化し、血液の塊ができて、重しを取った時、脳や肺、心臓などの方へ流れて行って塞栓を惹き起こすことがある。)
          
・ 感染症(穿刺した部分やカテーテルからの感染)

・ 薬の副作用(吐き気、神経障害など。全身投与の場合と比べて、動注の場合は局所の副作用が大きい。また、動脈は血管壁が厚いので、流圧が強く、末梢神経障害の可能性もある。)

・ ショック・アレルギー(動脈を穿刺したときの迷走神経反射など)

・ 動脈にカテーテルが挿入できない場合もあるので、その場合は治療は中止となる。


 いろいろな話を聞いていると、また恐ろしくなってきたが、後戻りはできない。意を決して、同意書にサインした。
 シスプラチンの動注のあと、アドリアマイシンは、末梢静脈から点滴注射で投与することになっていた。

 翌日の平成14年3月19日(火)午後1時半、父は病棟2階のIVR室へ入った。ストレッチャーに乗せられて病室を出るとき、息子のNに「卒園おめでとう!」と言って、手を差しのべた。Nは、ちょっと困ったような、不安そうな顔をしていた。

 治療には、予定していたよりもかなり時間がかかっていた。途中で先生が出てこられて、正常な部分へのダメージが大きいので、ごく少量ずつしか薬が投与できないとおっしゃった。
 終わったときは、午後4時をだいぶ過ぎていた。息子のNは待ちくたびれてもう限界、家で留守番しているRのことも気がかりだった。

 主治医の先生は、付き添いはいらないとおっしゃったが、もし嘔吐でもしたら・・・と思って、私は帰ることを躊躇していた。Rから、母が心配して何度も電話してきていることを聞いた。
 母に治療が無事終わったことを連絡したあと、父には申し訳ないが、息子たちのために私は一旦帰宅することにした。ようやく6時ごろ帰り着くと、母が父に付き添って泊まると電話があったとのことだった。
 母にそんなことをさせると、後で寝込んでしまうと思った。でも・・・父だってほんとは母に一番そばにいて欲しいだろうし・・・息子たちは黙っていたが、私が今夜も父の所に泊まるのではないかと不安そうな顔をしていて、かわいそうになった。 

 結局、無理を承知で母に頼むことにした(両親がふたりで一緒に過ごしたのは、それが最後になってしまった)。息子たちの表情が、ぱっと明るくなった。
 どうか副作用が軽くて済みますようにと、祈るしかなかった。



異変

 抗癌剤の動注を行った翌日、私はなかなか父の病院に足が向かなかった。行きたくない。心配なのだけど、気が重い。
 それでもやっと、正午過ぎに到着した。どうしたことか、父はえらくテンションが高い。ものすごい勢いでしゃべる。そして、「ここは○○大学(父が定年退職後に再就職した大学)ではないか?」と言った。輸液ポンプに表示されている数字も、何か別のものに見えるらしい。
 錯乱とまではいかないが、どうも普通ではない。抗癌剤の影響だろうか。でも、看護婦さんに言ってもまともに取り合ってはくれない。

 心配していた嘔吐などの副作用は出なかったようだ。いや、まだ出ていないというのが正しいのだろうか。生理食塩水を点滴していた。抗癌剤の毒を洗い流しているのだという。
 よくせきが出ているようなので、肺の転移巣が暴れているのではないかと気になってしかたなかった。

 私が帰ろうとしても、父はすごい勢いでしゃべりかけてきて、なかなか離してもらえなかった。ぐったりして元気がなくても心配だが、その反対もまた不可解で気になる。

 その翌日のお昼は、食欲がないというので雑炊を作った。朝食は8分目くらいは食べたそうだが。雑炊は気に入ったらしく、おいしいと言って食べてくれたので、とてもうれしかった。
 きょうも、まだ目に見える著しい副作用は出ていなかった。AHCCが、抗癌剤の副作用を抑えてくれると聞いていたが、そのせいかどうかはもちろんわからない。

 きのうのような不可解なことは言わなくなったので、ほっとした。一時的なものだったのだろうか。父は食欲が出ないことを気にするので、抗癌剤のせいだと原因がわかっているのだから、薬が体の中から出てしまえばもとに戻るのではないかと言ったら、黙ってうなずいた。
 それから5〜6日間は、果物を少しずつ食べて過ごした。



手紙

 動注から1週間経って、抗癌剤の効果は全くなかったと知らされた。癌が全然縮小していないらしい。教授回診のとき、ブレオマイシンの局注をやりますかと言われたらしい。
 
 父に、他の病院へ温熱療法を受けに行こうと言ってみた。父の2番目の弟が住んでいる某県の□□病院についても「サーモトロン」を開発した会社から情報をもらっていたので、治療について問い合わせてみた。
 この病院のホームページには、温熱療法が劇的に効いたという内容が盛りだくさんだった。あまりにもすごいので、信じていいのか疑問だったが、病院の評判などは叔父に聞けばいいのではないかと思った。それに・・・叔父に話せば、力になってもらえると思った。叔父自身も肺癌の手術を受けて、まだ5年経っていないけれど。
 でも私は、両親に加えて姉まで体調を崩し、ずっと自分ひとりで背負ってきた重荷に押しつぶされそうだった。誰でもいいから身内の人間に頼りたかった。

 でも、父はどうしても叔父に心配を掛けたくないようで、決して話すとは言わなかった。昔から3人の叔父(父の弟たち)のことをいろいろ気に掛けてきたようだが、自分は兄だからという思いが強かったのだろう、癌であることは言わずに病院のことだけ聞いてみようといっても、決して首をたてに振らなかった。

 帰る途中PHSに自宅電話から留守電が転送されてきた聞き取れなくて帰宅してから聞くと、今夜7時、放射線科の先生から話があるとのことだった。帰り道に聞き取れていたら引き返したかもしれないが、もう一度でかける気力はなかった。放射線科ということは・・・多分、動注で他の抗癌剤を入れようということだろうと思った。

 もう治療の方法がない。でも痛みは増すばかりで、ロキソニンの次に出されたペンタジンも効かなかった。神経ブロックとモルヒネのことが頭に浮かんだ。
 たとえ治らなくても、癌が消せなくても、この激しい痛みだけは何とかして欲しい。父を助けて欲しい。

 その夜、私は新しい主治医の先生に手紙を書いた。異動があって、前の主治医の先生は、郡部の病院へ行ってしまわれた。心細かった。ずっと父の病気を見守ってきてくれた先生がいなくなるなんて・・・。父の病気のことを、一番よくわかってくれていた先生であるはずなのに。



  ◇手紙◇

○○○○先生

 日頃は父が大変お世話になり、誠にありがとうございます。
入院以来4ヶ月余り、3度の手術と化学療法を受け、先生方には常に最高の治療を施して頂き、深く感謝致しております。

 にもかかわらず、この上甚だ勝手ではございますが、お願いしたいこととお聞きしたいことがありまして、なかなかお目にかかる機会もございませんので、失礼をも顧みず、お手紙を差し上げることに致しました。

 まず、痛みのことです。もう何ヶ月も辛抱しております。鎮痛剤をいろいろと処方して頂き、手を尽くしていただいておりますが、最近特に耐え難い痛みとなってまいりまして、最早何をする気力も失いつつあり、入院以来ほとんど欠かさず読んでいた新聞すら、読めなくなってしまいました。
 病状は非常に厳しく、当然辿らざるを得ない経過であることは、既に先生方からのご説明である程度理解しておりますが、今はただ、この痛みを少しでも和らげてやりたいという気持ちでいっぱいです。

 私の母が頑固な腰痛のため、現在当病院麻酔科にて神経ブロックの治療を受けております。癌の痛みにも効果があるということを聞いたことがあるのですが、紹介して頂くというわけにはまいりませんか。ぜひお願いしたいと存じます。

 また、既にこれ以上の治療の選択肢がなくなりつつあるのですが、最近サーモトロンという治療装置を使った温熱療法(ハイパーサーミア)があることを知りました。治療を行っているある病院に問い合わせたところ、父の場合も治療が受けられるかもしれないとのことでした。
 ただ、植皮できなかった部分があるので、実際に診察してみないと治療の可否ははっきりしないようです。
 痛みがもっと和らいで体が動かせるようになったら、一度診察を受けに連れて行きたいのですが、その際、こちらの病院からの紹介状をいただき、画像フィルム等をお貸しいただくことは可能でしょうか。

 随分勝手なことばかり書いてしまい、本当に申し訳ございません。父はもう74歳ですので、充分生きたと言えるかもしれませんが、娘である私にとっては、かけがえのない大切な父親です。痛みに苦しむことのない生活に戻り、たとえ1日でも長く生きて欲しいのです。一度家に帰りたいと申しますし、外出の許可は頂けるそうですが、痛くて痛くて、階下まで降りていくこともままなりません。

 どうか、○○先生はじめ諸先生方のお力をお貸しください。
 心から、お願い申し上げます。

2002年3月28日                                        (原文のまま)   


          ○○○○ 







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