父が、3月28日(木)の午後3時から、また放射線科の先生から話があると言うのででかけると、エレベーターを降りたところにストレッチャーに乗せられた父がいた。先生の話ではなく、これからCTを撮って、放射線を照射する位置決めをするようだった。
前に断られたはずの放射線治療を、どうしてまた受けることになったのか、全く不可解だった。そういえば、数日前に急に連絡があって行けなかった放射線科の先生のお話とは、このことだったのだろうか。父は、強い鎮痛剤のせいもあるのか徐々に頭がはっきりしなくなり、そのとき自分ひとりで聞いたはずの話を、私に伝えることも難しかったようだ。
とにかくその場で主治医のN先生に昨夜書いた手紙を渡し、CTが終わるまでの間、息子たちを連れて外へ出て時間をつぶすことにした。
新しい主治医のN先生は、まだ20代だと思われる、ちょっと華奢な感じの若い女の先生だった。もともと内科がご専門だったらしい。前の主治医の先生が、この先生にぜひにと指名してくれたそうだ。でも、とてもしっかりしていて、頼もしい感じがした。
病棟で私の姿を見かけると必ず声を掛けて下さり、細かいことも逐一報告して下さる方だった。こう言っては失礼なのだが、すごく一生懸命なのだけれど、それだけにときどき息切れしてしまいそうなところがあり・・・20代の頃の私にちょっとだけ似ているような気がした。
CTが終わった頃を見計らって、4時半に父の病室へ戻った。少しして、N先生が錠剤を1錠だけ持ってきて下さった。MSコンチンという、モルヒネ製剤のひとつだという。先ほど渡した私が書いた手紙を、すぐに読んでくださったのだとわかった。うまく使えば、心配はないという。
手紙に書いていた紹介状のことも、必要なときには書いてくださるとおしゃったが、温熱療法については、放射線治療を2週間受けてみてから検討するとのことだった。
どうしてまた放射線治療を受けることになったのかも聞いてみた。前に診察してくださった方とは別の先生が、治療を担当してくださるとのことだった。植皮できていない部分にも、もちろん照射するという。肺の転移巣については、今回は治療の対象となっていないらしい。
父は、新しい治療が受けられることになった上、モルヒネも処方されて痛みについても少しだけ楽観的に考えられるようになったせいか、元気が出てきたようだった。食事もほとんど摂ったというし、ストマの手入れも自分でやると言い出した。「甘えちゃいかん。」という。
窓の外に、少しだけ満開の桜が見えた。今年はお花見にも行けないし、ここから見てはどうかと何の気なしに言ったつもりだったが、父は「これが最後ではないから見ない。」と言った。
痛みさえ取れたら、きっと前向きな気持ちになれる。そしたら免疫力も向上して、自然治癒力が引き出されるということはないだろうか。必ずよくなる。私は無理にでもそう思うことにした。
しかし、その翌々日には父はまた食欲が無くなり、バナナだけを食べていた。ストマの手入れも、やはり自分では無理だった。息子のRがまた熱を出していると言うと、自分が原因でみんな調子が悪くなってしまったのだから、もう死ぬしかないなどと言い出し、なんと言ってやればいいのかわからなかった。
肝心のモルヒネの効果は現れていた。動いたりガーゼ交換をしたりするとまだ痛いそうだが、自発痛は減っているようだった。
温熱療法について問い合わせをしていた、近県のある大学病院の先生からも、早々とお返事をいただいた。温熱療法は、治療の主軸に置くものではないそうだが、これまでの経過や病状の詳細をお知らせすれば、治療について先生方で協議してくださるという、信じられないほどうれしいお言葉もいただいた。
お目にかかって診察を受けたこともないのに、ご好意に甘えていいものかと迷ったが、父をなんとかしてやりたい一心で、病状の詳細をお知らせすることにした。痛みさえ取れたら、診て頂くために出向いていくことは可能な距離だと思った。
その頃、またもうひとつ大きな問題が持ち上がった。世の中に、不幸と名の付くものがいくつあるのか知らないが、どうしてこうも一度にわが身に降りかかるのか、自分の運命を恨んだ。しかし・・・こうなったら、生きてさえいればなんとかなると考えるほかなかった。
|
|
|
|
どんな薬にも、多かれ少なかれ必ず副作用はあるという。モルヒネについてももちろん例外ではなく、まず便秘という副作用が現れた。便秘を解消するために、また別の薬を使うと、今度はまたその副作用・・・と数珠繋ぎになっているのかもしれないと思った。後で思うと、モルヒネにはどんな副作用があるのか、全く主治医から説明を受けていなかった。受ける時間もなかった。
父に、近県に診察してもらえるかもしれない病院が見つかったことを報告した。父は、「よくやった!」と喜んでくれた。今夜はよく眠れそうだという。
その翌日の4月1日(月)、父のところへ行くと、モルヒネのせいかうつらうつらと眠りかけていた。食欲はほとんどなかった。ところが、カップうどんを作るときれいに平らげたので、驚いた。この際、インスタント食品が体に良くないなどと言ってはいられないと思った。
私が帰ろうとすると、父がもっといてくれと言うので、とてもつらかった。そんなことを言うのは、この日が初めてだった。自分の家庭を負担に感じた。家族なんかいなければ、私ひとりなら、いつまでも、ずっとそばにいてやれるのに。父はこんなに苦しんで、死と隣り合わせの状態で病気と闘っているのに、どうして私はこんなに冷たい仕打ちをしているのだろう。(おとうさん、ごめん。何もできないなさけない私を許して。)
その日の夜9時40分、電話が鳴った。N先生からだった。その少し前の9時頃から、父の状態がおかしくなり、錯乱状態に陥ったというのだ。自分がいるところがどこなのかわからなくなって混乱し、帰らなくてはと言って外へ出ようとしたり、廊下を歩き回り、大きな声を出したりしたという。
夜間は、看護婦さんは2人しかいないのでどうにもならず、止むを得ず、精神科の先生を呼んで強い睡眠剤を注射したとのことだった。あす精神科の診察を受けさせることに同意を求められた。
すぐに病院へ行こうと思ったが、父は眠っているので・・・と言われ、あすからどういう事態になるかわからないことも考えて、その夜は行かないことにした。先生の話では、消灯前、母と姉が来ていたという。父の気持ちを傷つけるようなことでも言ったのではないかなどと思ったが、確認はしなかった。
N先生は、こういう状態になった原因として考えられることとして、1.長く個室に入院していることにより「ICUシンドローム」に似た状態を招いたこと、2.脳血栓、3.痴呆、4.脳への転移などを挙げられたが、私はモルヒネが原因だと思った。医学の素人になど断言できるはずなどないが、そう思った。
と同時に、私がいろいろな治療法や転院先を模索しているのもよくないのだろうかと思った。いろいろな方法をみつけてきては父に無理強いし、かえって苦しめているのではないか。効果がはっきりしないのに望みを持たせるのは、罪なのかもしれない。諦めて、緩和ケアに徹するべきなのか。しかし、父本人には生きる希望と意欲があるのだ!どうして諦めることができる・・・。
昨日、診察していただけるというお返事を下さったばかりの先生にも、やむを得ない事情をメールで連絡した。これで・・・もうこの病院にいるしかないのだろうか。 |
|
|
|
翌日の午前中、どうしても外出できない用事があったので、9時半ごろ父に電話を掛けてみた。
ゆうべの電話で主治医から聞いたのと違って、「気分はいい」と言い、普通の感じがした。
午後病院へ行き、ナースステーションに声を掛けて、とりあえずゆうべの件を詫びた。婦長と話をするように言われたが、婦長は主治医のN先生に精神科での診察の結果を聞くようにと、言葉少なだった。
父はけさになっても服を着替えて出て行こうとしたらしい。どうも、24時間付き添いが必要なようだった。婦長は、「何かあったら困るから・・・」と言うけれど、付き添いをつけてとはっきりは言わない。基準看護という建前だからだろうか。
父の部屋へ行くと、ちょっといつもと顔つきが違うような気がした。痛みは取れているようで、さっとベッドから降りられる。何度も廊下へ出て、「なんか違う、帰らなくては。」と言う。学校が・・・、生徒が・・・と、昔の仕事のことだろうか、わけのわからないことを話したりもした。
少々荒れたのか、タオルや衣類が部屋のあちこちに出ていたし、コード類をちぎってしまったのか、テレビがつかなくなっていた。
痛みが取れたのに、その代償がこれでは・・・。恐ろしくなってきた
時間、場所、人物や周囲の状況を正しく認識することを見当識というらしい。見当識が障害されると、家族がわからなくなったり、日時や季節がわからない、あるいはいま自分がいる場所がわからないというような現象が起こる。
今の父の状態は、この状態に近いようである。
少しして、モルヒネを処方した緩和ケア担当医であり、12月にストマの造設をした外科医でもあるY先生が来られた。(外科医以外の何者にも見えない、体全体がメスであるような、鋭い感じのする先生だった。)そのときは、なぜか父はわりとまともに話していた。
きのう(4/1)から、薬の量が最初(3/28)の2倍の、1日12錠(分3)になっているとのことだった。様子を見て、もう少し減らしてもいいし、1日1回のめばいいようにもできるらしい(MSコンチンは、確か徐放剤である)。昼間は眠らずにしっかりとしていたければ、そういう薬も出せるという。そして、これで充分効果がなければ、神経ブロックもできるとおっしゃった。
先生に、廊下へ出て歩いて見てくださいと言われ、父はスタスタと歩いて見せ、くるりと向きを変えたりもした。
Y先生は、「2〜3時間でも外出して家に帰り、身辺整理してくださいね。」とはっきり父に言うので、私は少しあわてた。しかし、父は別に表情を変えていなかった。(言われたことが理解できないのだろうか)
余命を告知していないのに、こんなことを言われては・・・と思ったが、多分、告知していないことをご存知ないのだと思った。
母本人に、母の病気がポリープではなく大腸癌だったことを(うっかり?)告げたのも、この先生だった。ご自身もお父様を癌で亡くされたと聞いている。
普通食だった食事をおかゆに変えてもらうようにだいぶ前から頼んであったのだが、やっとこの日から変更してくれていて、父はおいしそうに食べていた。痛みが取れたら、自然と食欲も出るのだろう。
父は姉の体調のことを心配していたが、やはりまともに話していた。私に「あしたも来てくれるのか?すまないなあ。」と言っていたが、窓を閉めようかと聞くと、「余計なことをするな!」と、初めて私に向かって言葉を荒げたので驚いた。今までには決してなかったことだ。が、すぐに「余計なことをすると疲れるから・・・。」と言い添えた。よくわからない。
父は、なんとか落ち着いているように見えたので、その日の夕方、私は帰ることにした。 |
|
|
|
次の日の午前11時、放射線科外来を訪ねた。このたび父の治療を担当してくださるH先生から、治療の説明を受けることになっていた。主治医のN先生も同席された。
話の内容は、概ね次の通りである。
1.肺転移のこと
原発性肺癌より転移性肺癌の方が、症状は少なく、かなり数多くの転移巣があっても平気な人もいる。症状の出ていない転移癌は、放射線治療の適応はない。治療する場合、3次元からの照射で、80〜90%は制御可能である。
例えば、大腸癌からの肺転移で、3個までの転移巣の治療は可能。しかし、たったひとつの転移巣を治療しても、その他に多数の転移巣が出現する可能性もある。多数の転移巣の治療は無理でも、それらが大きくなったり他の症状が強くなったりしたら、治療する場合もある。
2..痛みのこと
痛みを取る方法は、順序としてMSコンチン(モルヒネ)→放射線→神経ブロック であるが、MSコンチンは、効果と副作用のバランスをとるのが難しい。
陰部はもともと皮膚が弱いので、放射線の副作用が強く出る場合もある。
放射線は、骨転移や神経浸潤の痛みに奏功し(有効率80〜90%)、しかも痛みを取ることを目的とする場合の照射量は、癌治療の場合の6分の1でよい。
3.小線源治療
体内にカテーテルを留置し、3mm×1mmくらいの放射性物質を送り込む。しかし、カテーテルから10mmまでしか効果が及ばないので、広範囲に拡がった癌は治療できない。
4.温熱療法(ハイパーサーミア)
この病院にある治療装置は、「サーモトロン」という治療装置と、あまり熱さは変わらない。1回1時間、週2回で5週(合計10回)くらいが治療の目安であるが、副作用が大きすぎる(皮下脂肪が焼けてしまう)こともあり、あまり治療は行っていない。
50分間くらいの説明の中で、初めてMRIの画像を見せていただいた。今まで皮膚科で聞いていたのよりずっと大きく拡がっていて、もはやどうにもならないところまできているとのことであった。
父の治療には、X線を使うとのことだった。
実際に治療装置も見せてくださって、H先生は最後にこうおっしゃった。
「もっと勉強して、もっと多くの方の意見も聞いてください。」
ごりっぱな先生だと思った。
放射線科では、画像を見せてくださってこんなに詳しく説明してくださるとは思わなかった。
H先生のお話を聞いていて、他の診療科の先生と違って、放射線科の先生は体全体のあらゆる器官や臓器について把握されているようであることに気がついた。放射線を使っての検査や治療の対象が全身に及ぶことからすると当然のことかもしれないが、今まで気がつかなかった。
そう言えばアメリカと違って、日本では放射線治療の影が非常に薄いと聞く。日本では「手術偏重主義」とも言える癌治療が行われているので、外科系の医師が主導権を握っているらしい。そして彼らが、言わば「片手間」で、化学療法などを行っていることも多いらしい。
手術で器官や臓器を取ってしまうことは侵襲が大きく、患者のQOLが著しく低下してしまう。放射線治療なら、取らずに温存できる。
欧米では、癌にもよるが、3期や4期の癌でも放射線治療が標準であり、再発率や生存率が手術の場合より良好である場合もあるというのに、日本では1期・2期でも全摘手術を行うことが多いそうである。
「手術してもらえる」ことこそが喜びであり(まだ間に合う)、手術が不可能であるときは、(仕方なく)抗癌剤や放射線での治療を受けることになっているらしい。なぜなのだろう。
無知な私も、「切れば安心」なのだと思っていたが、父が3回も手術を受けたあとで、ようやくわかってきた。癌細胞は切っても切っても取り切れない。取りきれる場合ももちろんあるようだが、どこかに潜んでいてまた出てくる。
恐ろしい・・・。 |
|
|
|
放射線科外来を出て父の病室へ行くと、父は既に昼食を済ませていて、ほとんど残さずに食べていた。しかし、相変わらずわけのわからないことを言う。テレビで、父の大好きな高校野球にチャンネルを合わせても、全く関心を示さない。それに、あまりしゃべらない。
看護婦さんの話では、ガーゼ交換時の痛みは少し減ったらしい。しかし、ストマの装具を見て、「こんなものを人間の体につけるとは、けしからん!」と言ってはずそうとするので、「傷がもう少しよくなるまで置いとこうね」、となだめると、黙って手を引っ込めた。
その翌日も、父の様子は悪くなるばかりだった。
お昼過ぎに行ってみると、父は食器を落としたのか、看護婦さんが懸命に床を拭いてくれていた。そして父は、帰ると言って廊下を歩き出した。なだめすかして部屋へ連れ戻そうとしたのに、隣の部屋へ入ろうとした。看護婦さんに聞くと、父はすべての病室を回っていったらしい。やはり、これはただ事ではない。
ちょっと電話を掛けに廊下へ出て戻ると、なんと醤油を急須に移して飲んでいた。これはいけない・・・。あわてて看護婦さんに報告すると、婦長が飛んできて、室内に置いてあった薬やはさみなどの危険なものを、一切引き上げて行った。
もう、私ひとりでは限界だった。誰かの手を借りないと、私だけで24時間父に付いていることはできない。何をするかわからない。予測ができない。
私は、友人のMさんからいつも聞いている、Oさんという、ホームヘルパーの資格も持つ家政婦さんのことを考えていた。Mさんは私に、ひとりでは大変なのだから、いざというときはOさんの助けを借りることをいつも勧めてくれていた。でも私は、大切な父を他人に任せるのには抵抗があり、また罪悪感さえ感じて、いつも彼女の話を聞き流してしまっていたのだ。
Mさんは、身内の介護でOさんに長くお世話になったらしく、他の誰にもまねのできない、献身的ともいえる介護をしてくれるOさんのことを、よく私に話して聞かせてくれていた。
しかし、電話してみるとOさんはちょうど家業の忙しい時で、すぐに来てもらうわけにはいかなかった。
やむを得ず、とりあえず別の人にお願いするようになった。しかし今夜は間に合わず、私が泊まる以外方法はなかった。こども達がまたがっかりするだろうけど、止むを得ない。あすからはなんとかなるだろう。
婦長に、午後7時までに戻ると告げて、私は一旦帰宅した。
病院へ戻った時、エレベーターの中で、偶然主治医のN先生に会い、次のような話をしていただいた。
1.モルヒネは、特にたくさんの処方量ではなく、今夜はのんでいない。
夕方も大変な状態だったので、精神科の先生を呼び、安定剤を2錠のませた。(私が部屋へ入ると、父は眠っていた。)
2.モルヒネをやめないと、今の状態からは元に戻れないかもしれないが、除痛のために代わりに神経ブロックをすると、排尿障害が起きるかもしれない。そうなると自己導尿が必要になるが、座って行うことになるので、痛みのために座れない父には無理である。
3.放射線とブレオマイシンの効果が出ており、傷の表面は少しきれいになっている。(まだ放射線治療は4回しか受けていないのに?) |
|
|