これから私がこのページで書くことは、ほんとうは書かずに胸の奥深くにしまいこんでおこうと思っていたことである。思い出すのはまるで悪夢の再現のようであり、さらにそれを文章にすることは、父の名誉を傷つけることにもなりかねないと思ったのである。
そんな気持ちを、同じ時期に同年齢のお父様を亡くされたある方に話してみた。そしたらその方は、しまい込まずに書く勇気を持てと励ましてくれた。
確かに、これから私が書くことは、ひとつの情報として、及ばずながら今闘病されている方の参考になるかもしれない。少しでも誰かのお役に立てたらうれしい・・・。それに、このままずっと胸の中でくすぶらせていては、自分の中の闘いは永遠に終わることがないかもしれない。
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4月4日の晩、婦長と約束した7時に病院へ戻ると、父は眠っていた。
しかし10時頃目を覚まし、ごそごそ動き出した。痛みはかなり取れていると見えて、何度もベッドから降りて部屋の中のトイレへ行ったり、廊下へ出たり、とにかく落ち着かない。
ふとんを取り替えたり靴下を脱いだりはいたりしていたが、枕頭台の引き出しをものすごい力で引っ張り出してしまった。そして0時を過ぎて、歩行器を押して廊下へ出てしまった。
他の病室の方へ行こうとするので、みんな寝てるからと言って思い留まらせた。しばらくそういうことを繰り返していたが、1時頃から5時半まではなんとかまたベッドで眠った。
朝は朝で隣の部屋のドアをノックしてみたり、服を着替えてカバンを掛けて「出勤」するために廊下へ出たりした。少し歩いたら納得したのか、部屋へ戻ってまたパジャマに着替えた。
その日の朝、付き添いを頼んだ家政婦さんがくることになっていたが、父がどんな反応を示すかとても気がかりだった。
7時半になって、I さんという家政婦さんが来てくれた。私も知らない人だと言うと父が警戒すると思い、前に私のお産のときにお世話になったことにしておいた。そして、言い訳がましいかもしれないが、私は最近体調が悪いのでお手伝いをしてもらうことにしたのだと付け加えた。
幸い父はいやがることもなく了承してくれた(ように見えた)ので、ほっとした。父は、I さんが部屋を出ている間に、料金はいくらかと聞いたので、家政婦さんだということはわかっているようだった。そして急に思い出したように、私の息子RとNはどうしているかと聞いたりもした。
家政婦さんの料金は、どこの紹介業者に頼んでもだいたい同じだと思うが、このたびは2交代で24時間、しかも精神的な疾患を持つと見なされて通常の3割増の料金が適用され、1日26,000円もの費用がかかることになった。1ヶ月で約80万円、1年だと約1千万円・・・。しかし、支払いの心配などしている余裕はなかった。
父の入院以来5ヶ月近く、ほとんどひとりでがんばってきた私にとって、たとえ費用はかかっても、助けてくれる人ができたということはとてもうれしくて、ほっとした。 |
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家政婦さんは夕方5時半で交代なので、夜来て下さる方に会うために夕方再び病院へ行った。父は、歩行器を押して何度も「ヨーロッパへ行った」らしく、家政婦の I さんに足をさすってもらって、和んだ表情をして横になっていた。
父は長く個室でひとりで過ごしてきたので、たとえ他人でも、いつもそばにいて話し相手になってくれる人がいるとうれしいのだと思う。
父は一度も海外へ行ったことがなかった。退職して時間ができても、病身の母をおいては行けなかった。行きたいという願望がこんなところにまで現れていたのだろう。
5時を回って、夜間付き添ってくれるNさんが来てくれた。
主治医の話では、モルヒネは精神安定剤と併用して適当な量を決めるという。きょうは2錠に減らされていたが、ガーゼ交換のとき、はや痛いと言い出したらしい。調整がむずかしい。
翌日4月6日(土)、やっと少しだけ時間に余裕ができた私は、久しぶりに息子たちと外出していた。しかしほっとしたのもつかの間、午後2時過ぎに I さんから電話があり、早く来てほしいということだった。どうも父が手こずらせているらしい。
夕方病院へ行ってみると、父は点滴をして眠っていた。きのうまでと違って朝食も昼食もほとんと食べなかったので、点滴を打たれているのだという。自分で抜こうとするらしく、包帯で腕にぐるぐる巻きにされていた。
それに、目が覚めているときは安定剤のせいで体がふらつくのに、無理に起き上がってベッドから降りようとするので転倒しそうになり、小柄な I さんにはとても支えきれないという。
「安定剤」などのんでも、ちっとも安定なんかしていない。それどころか、父はいっそう混乱しているような気がした。いったい何なのだろう、この薬は!
安定剤のことで、家政婦のNさんがご自分の体験を話してくれた。
Nさんは、今の父のようにモルヒネの副作用で大変な状態になった高齢の女性を看病したことがあるという。在宅で療養していて、毎日医師が往診してくれていたという。
その女性の5人の娘も交代で看病に当たっていたが、年末年始でNさんが休んでいる間に、安定剤をのませ過ぎて母親の状態は悪化、娘は5人ともダウンしてしまったらしい。
困りあぐねた娘たちは、蔭で「姥捨て山」と言われている病院へ母親を入院させようとしていたという。
でもNさんはそんなことはさせなかった。ご自分がなんとかすると言って引き受けて、毎日多量の水分を取らせて安定剤を洗い流し、5〜7日でその女性は元の状態に戻り、きちんと話までできるようになったという。
頭を使う職業についていた人がこの状態になると、重いような気がすると言われた。
父に処方された安定剤も、Nさんが看護婦さんから受け取ったものは、すべてこっそり捨ててくれていた。だいたい夜の消灯前に処方されることが多かったが、父がそれをのんでよく眠った試しがなかった。
ナースステーションの前を通ると、私が苦手とするいつも不親切な年輩の看護婦さんがいた。
彼女は私に向かって、「本人は何もわからない方がいいのよ。」と言って鼻先でフンと笑った。返す言葉がなかった。それはそうかもしれないが、いやな笑い方だった。今度のことで私がこれだけ困っているというのに。彼女の日頃のいやな態度も思い出して、胸にグサリと突き刺さるものを感じた。
父はもとの精神状態に戻れるのだろうか。もとに戻ると、また厳しい現実と向かい合うことになる。でもやり残したこともあるはずなのに、このまま何もわからなくなってしまうのは・・・。
父は、私のことがわからない日もあったが、母のことは気にしていた。また、こんな状態になっても、出された薬は何の薬か聞いてからでないと、絶対にのまなかった。治療に対しては積極的だと、主治医の先生も言っていた。放射線治療も、問題なく受けているという。
AHCCとサメ軟骨も4月1日から中止したままだ。また飲めるだろうか。
心に響く言葉(Dr.Rのセカンド・オピニオンのページ)の、「3.モルヒネの副作用・痛み・肺転移のこと」も、ご参照下さい。 |
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夜間は看護婦さんが病棟に2人しかいないこともあって、父は夜間、両腕をベッドに縛り付けられて抑制されていた。家政婦のNさんは、父が取ってくれ取ってくれと何度も言うので、かわいそうでたまらないと言っていた。
Nさんは、子どもの頃父親を亡くしたので、生きていたら今頃は・・・と私の父に亡き父の姿が重なるのだと言った。
毎日、精神科の先生が父の様子を見に来た。先生が、「この人は誰ですか?」と私の方を見ると、父は「むすめです。・・・・下の方(私は次女である)。」
「ではこちらは?」と家政婦さんのことを聞かれたが・・・「むすめのハズバンド」。今、何時か、ここはどこかと毎日同じことを聞かれた。
父は、精神科の先生には警戒心を抱いていた。担当の先生の目つきが特に鋭かったせいもあるが、「精神病ではないかという目でじ〜っと見る」のだと言っていた。
家政婦さんが父のことを記録してくれているノートを見ると、前に手術をしてくれた形成外科のI先生までもが、うわさを聞いて父を見に来たようだった。緩和ケア室のカウンセラーの人も。誰もがみんな父のことを穴があくほど見つめて帰ったらしい。
そんなに珍しいのだろうか。モルヒネでこういう状態になることは、あまりないのだろうか。
平成14年4月9日(火)。この日は私の息子Nの小学校の入学式だった。もしかしたら出席してやれないことも・・・と気がかりだったが、なんとか出席できて、午後父にも報告した。
この日から、昼間はまた別の家政婦さんに変わっていた。Aさんという、物腰の柔らかい上品な女性で、父も機嫌がよかった。父が、Nの入学を祝って赤飯を食べなくてはと言い出したので、私は買いに出た。父はだいぶ落ち着いてきているような気がした。
主治医のN先生に会った。父を精神科病棟へ転棟させる話があることも聞いたが、この病院の精神科では受け入れられないようだという。精神病でもないのに精神科・・・どうしてこんなことになるのだろうと思ったが、一般病棟だと外との出入りが自由だし、窓から転落するような可能性も否定できない。それに第一、他の入院患者に大きな迷惑をかけている。
サメ軟骨の副作用として、“高カルシウム血症によるせん妄”もあると聞いたので、N先生に聞いてみたが、血液検査の結果、今そういうことはないとのことだった。
ある日父は、家政婦さんが父のことを記録しているノートを見つけてしまい、なんと自分で読んでいた。内容が自分のことだとわかるのだろうか。「いつからおかしくなったのか?」と周りの者に聞いた。
精神科の医師の話では、これまで父の症状を「せん妄」と診断してきたが、どうも「痴呆」の症状が前面に出てきたようであるとのことだった。一旦家に帰ればあるいは少々改善されるかもしれないが、病院にいる限りは・・・というので、家に連れて帰りたくなった。でも、母はあんな状態だし、私も実家にずっとはいられない。多分・・・無理だ。
夜はよく眠れるようにしときますと言われたが、なんのことはない、かえっておかしくなる安定剤を出しておくということだった。
よりにもよってちょうどこの頃、父が10年前から売却しようと苦労を重ねてきた県外のある土地のことで、不動産業者から連絡が入った。買い手がみつかったので早急に話を進めようとのことだったが、今の父にそんなことができるわけがない。
私だって、この土地の詳しい事情は父から何も聞いていない。
仕方なく、手があいた深夜、この10年間の経緯をたどるべく、父が保管している膨大な量の書類を探し出してきて、読みにかかった。もとの土地に隣接する土地を何筆か買い足したり、地役権を設定したり、何がどうなって今に至っているのか、最初はさっぱりわからなかった。まるで謎解きのような作業だった。
心に響く言葉(Dr.Rのセカンド・オピニオンのページ)の、「3.モルヒネの副作用・痛み・肺転移のこと」も、ご参照下さい。 |
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父と私は、廊下を歩いていた。歩きながら父が「わたしは(病状が)悪いんだろうか。」と私に聞いた。私には、「ゆっくり時間をかけて治そう。」としか言えなかった。
父は、自分の病名とか、入院に至るまでのことやそのあとの経緯が、もしかしたら全くわからなくなっているのかもしれない。
少し歩いて、ナースステーションの前のソファに、父と並んで座った(この頃は父も座れた)。婦長が通りかかった。いつもの曇った顔・・・・。言葉を交わすこともなく、目と目で頷き合った。
4月11日(木)の夜、私だけ処置室へ呼び出された。主治医のN先生と、先月転勤していった元主治医の代わりに別の病院から赴任してきたC先生からの話があった。
抗癌剤であるペプレオマイシンの筋肉注射を勧められた。しかし、かなりの率で肺線維症を起こすと聞いては、ほとんど効果も期待できないという治療を父に受けさせるわけにはいかなかった。2月からブレオマイシンを使っているので、肺の状態はあまりいいとは言えないようだったし。
X線に代えて、電子線というものを使う方法もあると聞いたが、浅い部分にしか効果はないという。太い血管が癌のそばを通っているので、放射線治療も慎重に行わないといけないのだという。しかし治療をやめると、きれいになってきている傷がまた元に戻ってしまうかもしれないらしい。いずれにしても、線量に限界があるというし。
また、貧血が進行しているとも聞かされた。3月に受けた化学療法の副作用として現れた骨髄抑制のせいなのかと思って尋ねてみたが、必ずしもそうではないという。
全身状態も悪化しつつあり、足腰も弱ってきているので、もし家に帰るとしたら今が最後のチャンスかもしれないとのことだった。
民間療法のことも指摘された。何かあっても、病院側としては責任は取れないと言う(当然だろう)。どうしてもサリドマイドを使いたいと言って、患者の家族が自ら輸入して持ち込んだこともあるという。自分たちは「保険医」だから、保険で認められていない治療は絶対にできないとのことだった(これもよく理解している)。
そのくらいのことは言われなくても充分わかっているつもりだった。民間療法のことで病院側に責任を問うつもりなど毛頭ない。すべて私の責任でやっているのだ(責任といっても、民間療法が原因で何かが起きても、もちろん私にはどうすることもできないわけだが)。
C先生は、私が苦手とするタイプの医師だった。いつもこわい目をしていた。
久々に大学に戻れて鼻息が荒くなっているのではないかなどど言っては失礼だが、まず第一に、私が父にすべてを・・・肺転移のことや余命のことを話していないのが彼のお気に召さないらしい(他の多くの医師や看護婦さんは、父が余命など知りたがっていないことと、私が父にすべてを話さないことを理解してくれていた)。
「僕のおやじなら、余命を告げて身辺整理させますよ!」と苛立った口調で言われた。
「でも、父はあんたの父じゃない。他ならぬこの私の父なのだ。あんたは医者かもしれない、私は何も知らないド素人だ。でも私の方が人生経験は長いし、父の娘として30何年も生きてきた。第一、父自身、余命を告げられることなど望んでいない。父のことなんか何も知らない、人生の後輩に過ぎないあんたなんかに、そんなことを言われる筋合いはないんじゃないか!」(と思わず私は・・・言いそうになった。)
病院側ともめて一番困るのは、他ならぬ父なのだ。よほどのことがない限り、感情を抑えて耐えることが賢明であるのだとわかってはいた。
この病院で、病院側ともめて病室の荷物をポイポイ廊下へ放り出している人を見たことがある。他人事ではないと思ったが、この病院もこれでもまだ以前よりは患者や家族にやさしくなった方なのだ。
母がここへ入院した12年前は、教授回診ともなると、病室にいる家族はさっさと外へ出ろと言われ、学校の廊下に立たされている子供よろしく、病室の前での棒立ちを強いられたものだった。 |
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父は年末年始に外出してから、もう3ヵ月半も外の空気を吸ったことがなかった。
4月13日(土)。夕方近くになって、息子のNを伴って父のもとを訪れた。病棟のエレベーターを降りると、背後で声がした。父と家政婦のAさんが、病棟の廊下の窓から外を眺めていた。父が外へ行きたがっているのだという。
私とAさんとふたりがかりでなら・・・と思い、看護婦さんに頼んでみた。看護婦さんたちは「えぇっ?!」と驚いた表情で許可するのを渋っていたが、私があまりにも強引なので、一応当直の先生に連絡を取ってくれた。
なんとか許可が下りた。途中で疲れるといけないので、車椅子も持っていくことになった。父は歩行器につかまり、私たち4人は喜々として階下へ降りて、病院の敷地内の奥の方へ向かった。
久しぶりに屋外へ出て、父はおいしそうに外の空気を吸った。すでに傾きかけていた太陽を、父はまぶしそうに見上げていた。何も言わない。言葉が出ないほどうれしいのだと私にはわかった。私もうれしかった。
「車をここへ持って来て欲しい。」「運転免許センターはどこだ?」とも言ったりした。やはり大好きな車に乗りたいのだ。
どんな望みでもかなえてやりたかった。もう一度ハンドルを握らせてやりたかった。しかし、当然ながら車の運転は、父自身はもちろん、他の人の命にもかかわるので、かわいそうだけれどただなだめるしかなかった。
30分くらい外を歩いただろうか。病棟の中へ戻ったが、霊安室の方へ行こうとしたので、「あっちは行けないよ。見てきたから。」とあわてて引き戻した。
父は、あまり痛みを感じないのか、歩行器に片足を引っ掛けて、もう一方の足で床を蹴って進もうとしたり、息子のNがふざけて乗っている車椅子にわざとぶつかったりして、まるで子供のようにはしゃいでいた。
外来の方へも行こうかどうしようかという表情で、父はしばらくそっちを眺めていたが、さすがに疲れたようで、あきらめてエレベーターに乗った。
この頃私は、もう何の手立てもないなら、サメ軟骨とAHCCで“最後の戦い”に打って出ようと覚悟を決めていた。 3日ほど前、父は自分からまたこれらを飲むと言い出した。量が多くて飲みにくいサメ軟骨は、濃縮タイプのものを探して、さらにオブラートで少量ずつ包んだ。
たとえ少しでも、病気の進行と痛みを抑えて、1日でも長く命の灯をともしていてほしい。
売却する予定の土地も、なんとかして父に元の精神状態に戻ってもらって、自らの手で売却を完遂して欲しいと思った。でも、もし売却できたら、父はほっとしてほんとうに自分の人生に終止符を打ってしまうのではないか・・・そんな気もして複雑な気持ちになった。 |
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