父の闘病記10(転棟)

あるきっかけ

 外へ散歩に行った翌日の4月14日(日)、私は夫や子供も伴って父のもとを訪れた。
 
 大勢で行くと、父はうれしそうだった。私が病室から出ている間に、夫と経済の話をしたという。結構まともな会話だったらしい。
 それなら・・・と思って、問題の土地の売却のことも切り出してみた。肝心なところは覚えている。自分の代わりに売却の話を進めてもいいという感じのことも、口にした。
 
 痛みも取れているようで、歩行器なしで歩いていた。会話もまともになってきてよかったと思っていたが、私たちが帰る頃に、病室に掛ける表札がほしいと言い出した。「職場」にもひとつ必要だという。正常な部分とそうでない部分が、交互に現れているようだった。

 私はここのところ体調が良くなかった。今までに罹ったこともない「扁桃炎」に罹り、扁桃腺が化膿して腫れ、激しい痛みを伴った。(やはり疲れているのだろうか。)

 4月15日(月)、いつも付き添ってくれているAさんはお休みで、Kさんという比較的若い家政婦さんが来てくれていた。
 父はどうしたことか、部屋中のものすべてにマジックで自分の名前を書いている。そういえば、「泥棒が来る。」とAさんにも言ったらしい。

 Kさんはことのほか几帳面に片付ける方らしく、どこかから段ボール箱を持ってきて、部屋の中の荷物をきれいに整理してあった。
 しかし、これがよくなかった。すっきり片付いたことがきっかけになって、父の頭の中では、ずっと目に触れていたものが見えなくなったということは、泥棒が盗んでいったことになってしまったようである。驚いたことに、私が持っていった新しい円座クッションも室内のトイレの天井裏に隠してしまい、取れなくなっていた(天井裏をあけるなど、大変な作業なのに)。

 それに、一昨日のようにまた外へ散歩に出たくなったようで、Kさんがひとりで外へ連れて行ったらしい(おそらく病院側の許可を取らずに)。

 そして夜になって家政婦のNさんに代わっても、服を着てカバンを掛け、階段を降りようとしたりエレベーターに乗って階下へ降りたり、他の病棟へ行って声を掛けたり、器材を置いてある部屋へ入ったりと、3時間くらいの間、私とNさんは父を追っかけ、なだめすかして病室へ戻してはまた追っかけて・・・ということを繰り返した。

 婦長は怒っていた。とげとげしい態度だった。婦長だって人間だから、止むを得ないかもしれない。こっちだって、好きで迷惑を掛けているわけではない。でも、主治医の次に頼りにできるのは、やはりこの人であってほしい。
 父が迷惑を掛けて、どうしても手が足りなかったら私を呼んでくれるように頼むと、「どういう意味ですか?」というイライラした返事が返ってきた。どういう意味かとはどういうことか、こっちが聞きたかった。

 しかしそういうやりとりの直後、精神科の先生から「転棟」を受け入れてくれるという話があり、彼女は満面の笑顔をみせてくれた。

 結局翌日4月18日(木)の朝、精神科病棟へ転棟することになり、その日の朝、婦長から連絡があった。



転棟

 平成14年4月18日(木)。朝の10時前に婦長から電話を受けて、あわてて病院へとんでいったのに、病棟を移るのは午後2時だと言われた。

 父はまた安定剤の注射を打たれたそうで、ひたすら眠り続けていた。

 私は処置室へ呼ばれ、精神科の医師の話を聞いた。

 話の概要は、閉鎖病棟への入院に伴い、「保護者選任」の手続きのため、家裁(家庭裁判所)へ出向く必要があることと、父は今後、ウインタミンという強い安定剤で半分眠らせた状態になるので、あまり会話はできないだろうということだった。

 眠らせることが・・・治療なのだろうか。起きて、廊下を歩くことは許されないのだろうか。
 それでは、死んでいるのと同じじゃないのか。殺しちゃいけないから、死んだ状態で生かしておくということなのか。

 これが医療というものなのか??
 
 何のための命?誰の命?薬で人間をコントロールすることが、医療なのか。
 精神科って、病んだ精神を治療してくれるところではないのか。

 
 でも、どんなに疑問を感じても、矛盾に苦しんでも、父を家に連れて帰れない以上、このまま転棟させるしか方法がなかった。

 午後2時。父は、ベッドで眠ったまま、皮膚科病棟を出た。安堵した表情の婦長を先頭に、N先生とC先生、家政婦のAさんと私もベッドを押して後に続いた。


 いつも施錠されている、厚くて重い大きな鉄の扉のむこうが、精神科・神経科病棟だった。「neuro psychiatric」と書かれた大きな白い紙が、「立ち入り禁止」の代名詞であるかのように、ドアにペタリと貼り付けられていた。

 大学卒業後、臨床心理士として精神病院へ就職した同級生もいたので、どんな所か少し話に聞いたことはあったが、私は、自ら精神科病棟へ足を踏み入れるのは生まれて初めてだった。
 
 病棟の出入り口が閉鎖されている以外、他の病棟とあまり変わらないように思ったが、病室にテレビもなく、窓はわずか数センチしか開かず、部屋のドアは外から施錠できるようになっていた。
 陶器やガラスの食器、針金のハンガーなどは持ち込めず、爪切りやはさみなどの刃物はすべてナースステーションへ預けることになっていた。病院ならあちこちに置いてある、手を洗ったあとの消毒液の容器も見当たらない。

 この病院にも、男性の看護士が勤務していることを初めて知った。この病棟では一番頼りになりそうな、病棟看護士長のMさん、ちょっとおっかない感じの副士長のSさん、明るい新人のBさんの3人がそうだった。

 傷のガーゼ交換は、毎日主治医のN先生が来て下さったが、この病棟の看護婦(士)さんたちは、日頃そういう処置に慣れていないということで、介助の手際があまり良くなかった。私は自分が行き合わせたときは、できることは手伝うようにしたが、これも最初転棟を断られていた理由のひとつだった。
 前に言われたとおり、この頃にはとうとう鼠径部に癌が出てきて、潰瘍を形成していた。

 この病棟でも、引き続き24時間の付き添いが必要であると言われたので、昼間はAさん、夜間はTさんという方にお願いした。病状によっては、病室に外から施錠したり、「特別な部屋」へ移すこともあると言われていたが、もしそのような状態になると、AさんにもTさんにも付き添いを断られるであろうと覚悟しておくしかなかった。



病院側の都合

 転棟した翌日の4月19日(金)の午前中、「保護者選任」の手続きのため、家裁と市役所を訪れることにしたが、配偶者である母が「保護者」になれない理由を証明する書類が必要なので、まず母のかかりつけの神経内科医を訪ね、診断書をもらった。

 法律に基づく手続きは、とにかくややこしくて面倒だ。家裁など行くのは初めてだった。持参した書類に不備があり、市役所へ2回足を運んだが、なんとか申し立ての手続きは終わった。

 夕方近く、やっと父のところへ行くことができた。きょうは、父がベッドからおりてふらつきながら廊下を歩くので、家政婦のAさんは昼食も取れず父に付きっきりだったらしい。
 すぐに休んでもらい、私が父に付き添った。

 父はしばらく病棟内を歩き回っていたが、ナースステーションの前のソファが気に入ったのか、しばらく腰を掛けていた。誰もいない、テレビもないがらんとした病室の中でじっとしているのは苦痛であったはずだ。絶えず人が出入りするナースステーションの前が、落ち着く場所だったようだ。傷をかばって、体を少し左に傾けていた。
 何かしゃべろうとするのだが、薬のせいでろれつが回らない。もごもご言うだけなので、聞き取ってやれない。何かしてほしいに違いないのに。もどかしい。筆談も・・・むずかしそうだった。

 言葉は聞き取れないけれど、適当に返事をしながら、しばらく並んでいっしょにソファに座っていた。父は、少しだけほっとしたような表情を見せてくれた。いつもの父だと思った。おかしくなんかなってない。
 何度も看護士さんや医師が来て、部屋へ戻るように言ったが、私が付いているのだからと断った(これが病院側の気に障ったのだが)。

 しばらくしてどうも父はトイレに行きたいような感じだったので、病室へ戻ることにした。
 しかし、自分では立ち上がれない。私の肩を貸して、抱き起こした。簡単にそうすることができた。父はすっかりやせてしまって、骨と皮の状態に近かった。
 (おとうさん、こんなにやせて軽くなってしまって・・・。どうしてこんなに。)悲しくて・・・悲し過ぎて涙も出なかった。

 次の日、さっそく父は薬を投与され、ベッドから降りられなくされてしまった。廊下に出てソファに座っていたから、マークされたのだ。
 「そのくらいのことでどうして?」。抗議したかったが、わかってもらえるわけはないと思った。大声をあげたわけでもなく、他の病室へ入ったわけでもない。廊下のソファに座っていただけ。それに24時間、誰かが必ず付いているのに。ひどい!

心に響く言葉(Dr.Rのセカンド・オピニオンのページ)の、「6.転棟」も、ご参照下さい。



再び転棟

 精神科へ移って4日目は日曜だった。
 休日もあまりいっしょにいてやれず、息子たちに さびしい思いをさせているので、久しぶりに昼間はいっしょに外出し、夜になってから父のところへ行った。

 夜間の付き添いをしてくれているTさんに、初めて会った。
 うれしいことに、きょう父はだいぶまともになってきていた。自分の住所も言えたし、どうしてこんな所に隔離されているのかと聞いたりもした。サメの軟骨も飲んだらしい。
 病院へ持ってきている預金通帳のことを気にしたり、姉のことを心配してみたり・・・。うれしくてついTさんと夢中でおしゃべりしてしまった。

 そしたら、父は眠たかったのか、「うるさいから早く帰れ」と言うので、たったの30分で病院をあとにした。

 翌日の夕方には、さらに父の精神状態は回復していて、かなりまともな会話をすることができた。新聞も読んでいたし、ラジオも聴きたいと言っていた。問題の土地のことも話したら、「急いで売ることはない」と言う。
 まだ、自分がいるところがどこなのか正確にわからないようだったが、「大変だったみたいで、悪かったなぁ。」と言うので驚いた。ほんとに、大変な20日間だった。
 その翌日の朝再び転棟し、もとの部屋へ戻ることになった。

 帰宅すると、少しだけほっとしたのかどっと疲れが出て、しばらく動けなかった。もとの病棟へ戻れるということで緊張が解けたのと、戻ってからの新たな心配と・・・。

 4月23日(火)の朝、父が精神科病棟を出る前に、看護士長のMさんにお礼を言った。もし何かあったら、また来てくださいと言ってくれた(来たくはないけど)。
 この方は、私とAさんが病室内のトイレの設備を父が壊すのではないかと心配していたときも、「そんなもの、壊れたら直せばいいんです。患者さんは悪くありません。病気がそうさせているだけです。」と言ってくれたのだった。(確かにそのとおりだが、皮膚科病棟では、やはり父は“悪者”扱いされていたのだ。)

 皮膚科病棟へ戻り、一応婦長に頭をさげた。歓迎されていない空気を感じた。「室料差額○○○○円いただきます。」という事務的な返事が返ってきた。「わかってます」と答えておいた。
 きょうからまたこの人の「傘下」に戻るのだから、がまんするしかない。(つづく)

心に響く言葉(Dr.Rのセカンド・オピニオンのページ)の、「7.再び転棟」も、ご参照下さい。





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