父の闘病記11(つらい時期へ)

皮膚転移

 皮膚科病棟へ戻ってからの父は、うとうと眠ってはぱっと目を覚ますことを繰り返し、家に帰りたいとよく言った。

 夜間、よく眠ることもあった。いつも母のことを心配していた。買い手がみつかった土地のことも気になるようで、書類を見せてくれと言うこともあった。
 でも、書類を見せて説明を始めると、いつの間にか眠ってしまっていた。

 安定剤が効き過ぎているのではないだろうか。やはりろれつが回らなくて、何を言おうとしているのかよくわからない。
 しかし、医師からは何をどのくらいのませているか説明はなく、他の患者に迷惑を掛けないようにするために、薬も止むを得ないのかと思った。癌のせいで、最期が近づくとこういう半分眠った状態になるのだという説明だけ受けた。

 放射線治療も終わり、抗癌剤の筋肉注射も断り、毎日ガーゼ交換をしてただ寝ているだけだった。

 4月26日の夜、放射線治療をして下さったH先生がメールを下さった。
 父の治療は、皮膚の薄い部分へ照射したこともあって、皮膚にびらんが生じるなどの副作用が出たため、中止したとのことだった。H先生の言葉ひとつひとつに、頭がさがる思いだった。
 初めて放射線科を受診したとき、H先生に診ていただいてすぐに治療を受けていたら・・・或いは今と違った経過をたどったかもしれない。放射線だけが、たとえ一時的ではあっても、癌に効力を発揮した唯一の治療だったのだ。

 大学病院には何人もの医師がいて、ひとりだけの診察で治療の可否や方針を決定するのでなく、協議の上で行うのかと思っていた。よく「カンファレンス(conference)」をやっているようだし。
 今になってこんなことを言っても、もう遅いのだけれど。

 4月29日(月)。きのうもそうだったが、父の病室に入ると、父は「久しぶりだなあ。」と言った(毎日来ているのに)。
 ちょうどガーゼ交換に行き合わせた。病室の中から、C先生が私を呼んだ。先生が示す方を見ると、父の大腿部に赤い部分がいくつかできていた。皮膚転移だった。精神科病棟にいたときは、まだなかった。「皮膚に拡がる」と以前説明を受けたとおりだった。
 「悔しいけど、僕には(癌の進行は)止められません。」とC先生は言った。なんて無力な・・・。でも他の先生も同じなのだろう。

 やっぱり、なんとかしてストマからサメ軟骨を入れたいと思った。口からはもうあまり飲めない。間に合わない。何か器具が必要だと思った。針のついてない注射器のようなものが欲しい。
 しかし・・・仮に少しだけ進行を遅らせても、その分苦しみを長引かせるだけになってしまうのだろうか。私は、望みのない、苦痛を引き延ばすだけの延命をしようとしているのだろうか。

 その日の晩、ずっと昼間付き添ってくれているAさんから電話があった。父は、きょう私が帰ったあと、また家へ帰ると言い出し、部屋から何度も出てエレベーターに乗ろうとしたらしい。Aさんが引き止めようとしたら怒り、毒舌を吐いたのだという。
 Aさんは、とても一生懸命にやってくれていただけに、相手が病人であるとはいえ、ショックを隠し切れないようだった。また別の人に、付き添いをお願いすることになった。

  ここまでで、私が父の闘病を記した2冊目のノートは終わっている。
 



転院の話

 5月になった。

 5月1日(水)。お昼過ぎに父のもとを訪れると、自分で昼食を食べていた。自分で、といっても、ベッドに寝たまま左へ向き、少しだけ体を起こして右手を伸ばすという、とても食べにくい姿勢だが。
 スプーンで何回か口に運ぶと、すっと寝てしまう。そしてまたすぐにパッと目を覚まし、また少し食べるのである。
 サトイモが食べたいというので、あす煮ものにして持ってくると約束した。

 驚いたことに、父は心電図を装着していた。きのうから不整脈が出ているらしい。 老人性のものだと言われたが・・・何かの副作用ではないのだろうか。もともと心臓には全く問題はなかったのに。

 翌日の夕方5時、主治医から何か話があるということで、私はナースステーションの前で待っていた。
 前に何度か会ったカウンセラーのM先生が姿を見せて、私に話しかけてきた。(またこの人?)これはまた何か特別なことを言われるのだと直感した。

 M先生は、父がモルヒネをのむ前、土地のこともきちんと片付けなくてはと言っていたことを話してくれた。気持ちの踏ん切りがついた。私が契約書にサインしようと思った。父もわかってくれると思った。止むを得ない。
 あとで、勝手なことをしたのは誰だと怒ってくれるとうれしいのだけど。そういう状態になれたらいいけど。


 5時を過ぎて、ナースステーションの中へ呼ばれた。主治医のN先生と婦長、カウンセラーのM先生、それに私の苦手なC先生もいた。


 まず、父の今の状態の説明があった。

1.不整脈は、高齢と脱水が原因とみられ、心房が震えているために起きていて、抗不整脈剤を投与している。

2.左肺に、ブレオマイシンの副作用とみられる線維化が認められる。右肺の転移巣の大きさは、2月22日に1cmだったものが、4月22日には2cmになった。

3.放射線治療では、総量で30グレイ照射した。まだ限界ではないが、照射部位にびらんなどの副作用がみられるので、中止した。今回照射していない部分に治療を行っても、さらにその先へ癌が拡がっていくものと思われる。

4.胃薬等も、せん妄の原因となる物質を含有するため、今すべて投与を中止している。モルヒネよりはやや効果が劣るが、レペタンで痛みのコントロールをしている。


 そして、病状の改善が極めてむずかしいことを改めて告げられたあと、転院のことを切り出された。

 「この病院は特定機能病院であり、治癒の見込みのない患者を入院させておくことはできない。治療を受けるためにベッドが空くのを待っている患者が大勢いる。転院先は、緩和ケア室が検討して手配するので、決まり次第転院して欲しい。」
ということだった。
 それでもいさせて欲しいと頼んでも、日頃受けている処遇から考えて、それがまず無理であることは容易に判断できた。そういえば、ずっと長く、父の入院前から隣の個室にいた女性患者も、いつの間にかいなくなっていた。
 要するに、“死に場所”へ行けということなのだ。さじを投げられたのだ。なんて悲しい現実・・・。


 転院の件は、了承するしかなかった。
 しかしこんな田舎では、ホスピスと名の付くところもまだひとつしかないし、ほんとうに転院などできるのだろうかと思った。

 話の最後に、父の患部の写真を撮りたいと申し出た。セカンドオピニオンをいただいているR先生に見ていただくためだった。
 しかし、N先生もC先生も難色を示した。N先生は怖い顔になって、診察も受けず写真を見せただけで、いったいどんな意見が聞けるのかと言った。
 同じような症例の治療もこなされている先生だから意見を求めたいのだと言うと、C先生は「どうこなしているのだ!」とくってかかってきたので、どうせ転院するなら、今ここで何もかもぶちまけてやろうかと一瞬思った(が、かろうじて理性がはたらいた)。

 病院側はいつも、患者や家族の了承などなく、どんな写真でも好きなように撮っているではないか。
 いくらこちらが治療してもらう立場だといっても、ここは大学病院で研究・教育の使命も担っているからといっても、目の前でいきなりカメラを取り出されて、ひとことの言葉も掛けられず、カシャカシャと何度もシャッターを切られると、すごく不愉快なのだ。あんたたちは、そういう患者や家族の気持ちを一度でも考えたことがあるというのか?!(私は、心の中でこう叫ぶしかなかった。)

 それでも、ガーゼ交換は毎日午前中に来ているということだけは聞き出した。しかし翌日の午前中病室で待っていたが、たまたま都合が悪かったのかどうか知らないが、来ることはなかった。

 そもそも、自信のない医師ほど、セカンドオピニオンを嫌うのではないかと思う。自信を持って、しかも患者のことを第一に考えて診療にあたっている医師なら、むしろセカンドオピニオンを受けることを勧めてくれたりするものである(私には、以前そういう医師に会った経験があるし、R先生もそういう方だと思う)。



ひしひしと迫り来るもの

 その日の夜、ちょっとだけと思って横になったら、うっかり寝入ってしまっていた。
 ところが11時頃、電話の音で目が覚めた。
 電話は、Aさんの代わりに付き添いをお願いしたばかりのMさんからだった。

 父は夜も眠ることが多くなったので、昼夜交代での付き添いを、24時間ひとりでの付き添いに変更したのだった。こうすると費用はかなり抑えることができるので、Aさんが勧めてくれたのだった。しかし、夜間も起きていてもらうのでなく、休んでもらうという条件になっていた。

 Mさんは、深夜の病院の廊下だから小声で話しているようで、話がとても聞き取りにくかった。どうも父は食事が摂れなくなって、24時間点滴をすることになったようだった。Mさんは、これでは自分は夜も眠れないと言っているようだった。
 Mさんはかなりの時間ブツブツ言っていたが、半分くらいしか聞き取れなかった。

 とにかく、翌朝早めに病院へ行った。
 父はゆうべ、Mさんが眠っている間に目を覚まし、点滴スタンドを引っ張って、自分でトイレへ行ったらしい。ところが部屋に戻れなくて、隣の部屋の方が連れてきてくれたらしい。
 ベッドの柵をまたいで、よくそんなことが・・・。でもまだそれだけのことが自分でできたのだから、すごいと思った。

 Mさんは、危なっかしくてとても面倒は見られないと言って、夕方帰って行った。

 父は、Mさんがお昼におにぎりを食べているのを見て食欲がわいたのか、明太子のおにぎりとキムチが食べたいと言い出した。無理ではないかと思ったが、すぐに買ってきた。そしたら、あとで食べたらしい(これが、父が自分で食べた最後の食事だった)。

 父は、誰か来るとうれしいようで、「千客万来」とつぶやいたのが微かに聞き取れた。


 翌日5月4日(土)。お昼前に、主治医のN先生から電話が掛かってきた。
 父の心臓の状態が良くないという。薬で抑えても脈拍100くらいで、心臓の動きが悪くてへたってしまうと、心不全を起こすとのことである。ここのところ食欲も減っているし、このままだといつ危篤状態に陥ってもおかしくないそうである。

 混乱した頭で私は考えていた。精神安定剤で動けなくされて、体力が落ちたのじゃないのか。不整脈だって、薬の副作用ではないのか。
 いろいろ考えていたら涙が出てきて、とうとう子供たちの前で泣いてしまった。子供たちに「じいちゃん」はもうダメかもしれないと、とうとう言ってしまった。

 この日、父は同窓会に出席するはずだったので、午前中、教え子の方がお見舞いに来て下さったらしい。いただいたメロンを細かく刻んだら、父は、ごく少量だけど、おいしそうに食べた。


 ひしひしと迫り来るものを感じて悲しみが増す一方で、最近ときどき、冷静な“もうひとりの自分”が顔をのぞかせるようになった。
 こうなったら、父に口止めされているが、父の弟たちに連絡しないわけにはいかない。土地の売却も、父の存命中にやらないと大変だ。それに・・・万一のとき、預貯金は支払い停止がかかってしまって出金できなくなる。いろいろと必要な費用が発生することを考えて、ある程度まとまった現金も用意した。
 でも、どうか用意がすべて無駄になって欲しい。心臓さえ持ち直してくれたら・・・。



Oさんのこと

 5月5日(日)。病院の外へ一歩出ると、ゴールデンウィークの楽しげな空気を感じた。別世界のような気がした。もちろん、息子たちもどこへも連れて行ってはやれない。

 不満顔のNを連れて、朝の8時前に病院へ着いた。
 きょうから、Oさんという家政婦さんが来てくれることになっていた。彼女は、友人のMさんから紹介してもらった人で、わざわざ遠方から来てくれることになっていた。来てもらえるまで1ヶ月待ったが、待った甲斐があったと思う。

 Oさんは、ホームヘルパーの資格も持っていて、介護についてはプロだった。しかも、ご自身も夫を若くして癌で亡くすという経験をされていた。かなり病状の重い人に付き添った経験も豊富で、医学的なことを除いて、もしかするとそこらへんの看護婦さんたちより、よほど知識が豊富なのではないかと思うくらいだった。

 それに何より、病人や家族を思うやさしい気持ちにあふれていた。家族以上の看病をしてくれたと言っても、決して過言ではない。
 私にどんなに父を思う気持ちがあっても、知識がないがためにしてやれなかったことが多くあったが、Oさんは24時間ろくに休む間もなく、行き届いた看病をしてくれた。

 口を開けたまま眠っていると、口の中が乾燥してしまう。普通に考えると当然のことなのだが、その当然のことさえ私は気がつかなかった。
 Oさんは何度も父の口の中を湿らせたり、歯の汚れをふき取ってくれたりもした。そうしておかないと、口内炎を起こしたりもするという。

 たまに目を覚ました父は、Oさんが「口を開けて」と言うと、ちゃんと開けていた。そして、口の中を湿らせるととても気持ち良さそうな表情を見せてくれた。

 父は、口の中がどんなにカラカラに乾いても、自分でそれを訴えることすらできなくなっていたのだ。そんなことにも気が付いてやれなくて・・・私はなんてかわいそうなことをしてしまっていたのかと思って涙が出た。

 ほとんど眠ってばかりいる父を見たOさんは、精神安定剤をやめたら、ちゃんと目を覚まして食事も取れるのではないかと言った。
 さっそく、主治医に頼んでやめてもらった。そしたら・・・ほんとうに父は目を覚まし、自分で噛んで食事をするようになったので、驚いた。
 私は、癌の末期だから眠っているのだなんて説明を受けていたが、そんなこと、とんでもない。

 Oさんは、何もせずにのんびりしているときがなかった。父のために何かできることはないかと常に考え、常に何かをしてくれていた。
 体の向きを変えないとすぐに床ずれができるというので、しょっちゅう向きを変えてくれた。 脚を動かしたりマッサージしたりしないと、すぐに固まってしまって脚が開かなくなるそうで、手があいたら脚をさすったりお湯で拭いたりしてくれた。
 
 AHCCのことも話したら、医師に話してあるのならと言って、食事に混ぜて食べさせてくれたりもした。

 こんなに献身的な看病をしてもらえたことが、父にとってせめてもの救いだったと思う。 



延命措置のこと

 その日の午後、私は主治医のN先生に呼ばれてナースステーションへ行った。C先生と、初めて顔を見る病棟医長のT先生の姿もあった。

 話の内容は次のとおりで、おもに、父の心臓のことと、延命措置のことだった。


1.「心房粗動」により心臓内に血液が溜まり、血行が悪化したり、場合によっては血栓が発生して脳梗塞などを惹き起こすことがある。現在、内服薬で治療している。

2.延命措置と、中心静脈(首の下の太い静脈)栄養、(血圧低下時の処置として)昇圧剤、いずれも断った。
 延命措置を断ると、苦しい最期を迎えることになるのではないかと心配だったが、酸素の吸入は行うそうだった。
 心臓マッサージは、最後のときに、家族全員が揃うまで続けるかどうか聞かれたので、お願いすることにした。

 すべて私だけの判断で決めることに、抵抗を感じなかったわけではない。父の命を私が決めてしまうようで、これは許されるべきことなのだろうかと思った。でも・・・止むを得ない。

 父はもはや自分で自分の意志を示せないので、父が聞いたらどうして欲しいと言うか、これまでの父との関わりを振り返り、自分なりに考えて決めるしかなかった。

 父は多分・・・延命措置など望まないはずだ。自分も周りの者もつらい状態で延命することなど、潔しとしない人だと思った。
 中心静脈から栄養(高カロリーの点滴)を補給すると、癌にもまた栄養を与えることになるのだと聞いたので、末梢静脈からだけ、点滴等を行うことにしてもらった。

 T先生に、今の父の病状をどう思うかと聞かれた。答えたくなかったが、“もうひとりの私”が「夏まではとても・・・」と言葉をもらした。T先生は、納得したような表情をされた。
 「最後まで絶対にあきらめない」という気持ちはもちろんあったが、医師をある程度納得させるための返事もやはり必要だと思った。



父のピアノ

 精神安定剤をやめると、父は目をさまして、食事もある程度の量を、きちんとかんで食べるようになった。これはいい傾向だと思って、私とOさんは喜んでいた。

 しかし、また「うちへ帰る」と言い出し、靴を探したり、点滴を引っ張ったりして、ついこの前の状態に戻ってしまった。
 そしたらまた安定剤が出され、半分眠った状態に戻ってしまい、婦長の指示で食事はどろどろのペースト状のものになってしまった。
 安定剤が処方された翌朝、変に不整脈が出るのだった。やっぱり、何か影響があるのだろう。

 毎週火曜日、教授回診があった。父のまわりに、人だかりができていた。治せないんなら、そんなに見るなと言いたかった。回診が終わるとだいたいいつも、主治医のN先生があわててとんできて、教授からの指示を伝えてくれるのだった。
 その日の指示は、充分食事が摂れないなら、鼻孔にチューブを入れて直接胃へ食事を流し込むようにとのことだった。チューブだらけになるのは父がかわいそうだと思って、断った。
 N先生も、教授と、言うことを聞かない患者の家族との板ばさみになって、苦しんでいたと思う。

 5月7日(火)の夕方、リネン室へ行く途中で、前の主治医の先生にばったり会った。懐かしかった。父の今の病状については、既にご存知だった。
 山あいの病院へ赴任された先生は、毎日雨ばかり降るのだと言って、さびしそうに笑った。

 その翌日の晩、父の3人の弟のうちふたりがお見舞いに来てくれたらしい。父は、笑って応えていたという。しかし・・・これで父に、残された時間があまりないことを告げたことになる。父のことだから、きっとある段階で気づいたことだろうとは思うけれど。
 父が何をどう感じているのか、理解する手段もなかった。目を覚ましているようなときもあったが、もう私のことはわからないように見えた。

 最後に私の名前を呼んだのは、5月3日だった・・・。いや、最後なんかじゃない。またきっと元に戻る。信じている。心臓だって、きのうから落ち着いているというではないか。

 父に音楽を聞かせようと思って、カセットテープにビートルズのナンバーと童謡を何曲か録音した。
 ビートルズの何曲かは、父が70歳を過ぎてからピアノで練習していた。楽譜どおり私が弾いたものを録音しておいて、それを聞いて練習したり、原曲も聞いてイメージを把握していた。
 「Let it be」、「Hey Jude」などがお気に入りだった。

 私は、ピアノの練習を始めた頃の父のことを、確か4〜5年前、父の日に寄せて、新聞の投稿欄に投稿したことがあった。


「父のピアノ」(新聞の切抜きをなくしたので、記憶をたどって一部だけ・・・)

 70歳を過ぎた実家の父が、最近ピアノの練習を始めた。通販で手に入れたという、音符でなく番号で書かれた変わった楽譜を使っている。
 父は、もともと何にでも前向きに取り組む人だ。お気に入りのビートルズのヒットナンバーを、伴奏をつけて弾こうとしている。

 通常、おとなになってからピアノを弾こうとすると、右手はなんとか動くのだが、左手はむずかしいことが多い。

 練習を始めてから少しして、実家を訪れた。父のピアノが聞こえた。上達している・・・。すごいと思った。

 これまで父は、決して平穏とは言えない人生を歩んできたように思う。(私も、ひどい親不孝をして、父を泣かせた。)今ようやく、少しだけ自分の時間を持つ余裕ができたのだろう。
 父の奏でるピアノを聞いていると、なんとなく前向きな気持ちになれるような気がする。
 
 お金の心配をして、いつも父の日のプレゼントなんかいらないと言う父に、せめて私の気持ちだけを贈りたい。
 「おとうさん、どうかいつまでも元気でいてください。孫たちといっしょにお酒を飲める日を楽しみにしていて。」



 投稿文を読んだ新聞社の人が、すぐに電話をくれた。新聞に掲載された私の投稿文を読んだ父は、何も言わずに静かに笑っていた。きっと・・・喜んでくれていたと思う。口には出さないひとだけど。

 投稿したとき、父はずっと元気でもっと長生きしてくれると信じていた。あたりまえだと思っていた。疑うはずがない。なのに・・・どうして・・・?癌は、父からピアノも音楽も奪い、私から大切な父を奪い去ろうとしている。
 どうして・・・?どうしてこんなこと。
 





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