父の闘病記12(終楽章)

父の歌

 5月10日(金)。母が下痢が続いて体力が落ちているようなので、病院へ連れて行き、点滴をしている間に父のところへ行った。

 父に「おはよう!」と声を掛けると、なんとか聞き分けられる声で「おはよう」と答えてくれた。
 睡眠剤は、少しだけ減らしてもらっているようだ。

 廊下で、主治医のN先生に会い、何点か説明があった。


1.精神安定剤のウィンタミンは引き続き中止しているが、睡眠剤はすべて中止するわけにはいかない(夜中に大声を出して、隣の部屋の人が眠れなかったことがあるので)。
 もはや、大声など出せる状態ではないと思うが。

2.今、嚥下困難の状態である。

3.意識の低下は、癌のために、血液中のカルシウムの値が上昇することや、全身の衰弱のせいだと思われる。

4.ずっと発熱が続いているので、きょう肺のX線撮影をする。肺炎の可能性もある。

5.今後の見通しははっきりしない。

 
 父は、翌朝5時頃から心臓の調子が悪く、ちょっと苦しそうだったそうだが、昼間は起きて、いろいろと聞き取れないことをしゃべっていた。いろいろ気になることがあるのだろう。どのくらい正常な思考力が働いているのだろう。

 Oさんが話をしながら父に相づちを求めると、「うん、うん」という感じで頷いたりもする。
 きのうまでより、目にも力があるようで、しっかりと見開いている感じがした。話の内容も自分の状態もすべて理解できているけど、ただ、きちんと言葉を発することができないのではないかと思った。

 5月13日(月)のお昼前、父の部屋へ入ると、Oさんが座って窓にもたれたままうたた寝していた。 夜もほとんど寝ていないはずなので、お疲れなのだ。こんなに無理させてしまって、申し訳ない。

 この日、父はなんと歌を口ずさんで周りの人間をびっくりさせたらしい。何の歌であるか、父と同じ世代の人ならわかったかもしれないとOさんは言った。
 こんなに苦しい状態で歌が出るなんて、楽しかったことを思い出したのだろうか。夢でも見たのだろうか。

 翌日の教授回診のあと、やはり鼻から胃へチューブを入れるよう言われた。抗不整脈剤の内服がむずかしいので点滴から入れているが、内服したときほどの効果がないらしい。内服薬はカプセルなので、飲み込みにくいのだ。
 カプセルから出してのませると、食道にくっついて潰瘍ができたりする可能性があるという。

 それでもまだ、私は食い下がった。カプセルが大きいなら、市販されている小さなカプセルに入れ替えてはどうだろう、と先生や婦長に話してみた。(渋い顔をされた)。

 結局、カプセルを開けて、中の薬をヨーグルトなどに混ぜてのませることにした。



とんでもない転院先

 父の容態が少し落ち着いたので、また転院の話が浮上してきた。
 どこか、いい転院先が見つかったのかと思ってN先生に聞くと、なんと父の癌を見つけてくれなかった院長のいる○病院とのことだった。まだ、先方へは打診していないらしかったが。

 よりにもよって・・・。あまり転院先の選択肢がないことは承知していた。ホスピスと名のつく病院も、県下では初めて、先月オープンしたばかりだった。
 母や姉の便利さを考えると、自宅から近い○病院がいいのだろうか。しかし、とても抵抗がある。またあの院長のお世話にならなくてはいけないとは。

 父の病室のドアをノックすると、「ハイ!」と大きな返事が聞こえた。父の声だった。部屋を間違えたのではないかと思うくらい、久しぶりに聞く元気な声だった。
 相変わらず父はいろいろしゃべるのだけれど、あまり聞き取れなかった。それでもこの日、「金具」、「足がかゆい」、「選挙」という言葉だけ聞き取ることができた。

 Oさんが、よくこんな状態で放り出すものだ、ひど過ぎる、と転院を迫られていることに同情してくれた。病院側は、患者がどういう状態であろうと、治療の方法がなくなった患者は入院させておくわけにいかないというのだから、もうどうにもならない。


 5月16日(木)、ほぼ1ヶ月ぶりにガーゼ交換に居合わせた。父の傷を見るのに、胸がドキドキした。どれだけ拡がってしまっているのか、見るのがこわかった。でも、R先生に、写真の代わりに絵が描けますか?と尋ねられてもいた。しっかり見ておかなくてはならない。

 父の傷は、放射線治療のおかげで、元の3分の2くらいに縮小していると聞いていたが、確かに小さくなっていた。しかし、大腿部に3個、皮膚転移があり、突出している。
 ああ・・・なんてつらい病気なのだろう。こんなに拡がってしまって。


 翌日の5月17日(金)は、かなり雨足が強かった。この日の朝、大学病院からの紹介状をもらい、死んでも行くものかと思っていた○病院へ院長を訪ねた。
 転院を受け入れてくれると聞いていたのに、院長の返事は違った。返事は来週になるという。
 「大変なことになっていますね。」と、冷たく、他人事のように言われた。(誰のせいでこうなったと思ってるの?)またこんな人に頭を下げなくてはならないのか。なさけなかった。

 そしてその翌日、今度は○病院の看護師長らしい人から電話があり、午後出かけることになった。
 転院は受け入れてくれるという。病室も見せてもらった。引き続き、付き添いは24時間必要だと言われた(当然だろう)。こちらへ移るのは、5月25日(土)頃になりそうだった。

 ○病院を後にして父のところへ行ったのは、もう3時近かった。
 この日、父は熱が高くて、冷やしても38.2度とのことだった。解熱剤も打ってもらった。

 隣県に住む、叔父(父の一番上の弟)夫婦がお見舞いに来てくれた。
 父は目を覚まし、笑って応えていた。まだ、誰だかわかるのだ。話ができないのがもどかしいことだろう。
 叔父が帰ったあと、私はOさんと話をしていた。叔父の家からここまでの所要時間はどのくらいか・・1時間じゃ無理だし、2時間だろうかと言った途端、父が大きな声で「1時間半!」と言ったので、驚いた。正解のようだった。

 この日、私が帰るとき、父は右手を上げてバイバイしてくれたのだ。

 ある薬剤師から、サメ軟骨は、心臓に器質的な問題がなければ飲んでも大丈夫だろうという回答があり、飲む量が極めて少なくて済む濃縮タイプのものを注文することにした。
 絶対にあきらめない!



呼吸停止

 ずっと休みなしで、夜もろくに眠らずに頑張ってくれているOさんが、5月21日・22日の2日間、一旦家に帰ることになった。いてくれないと不安だったが、Oさんが疲労で倒れることになりかねないので、ゆっくり休息を取ってもらうことにした。

 父は呼吸が乱れたらしく、鼻から酸素を吸っていた。食事を摂ることも最早むずかしく、ゼリーやヨーグルトなどしか受け付けなくなった。
 Oさんがいない間、少し体調の戻った姉とふたりで、交替で父に付き添うことにした。

 5月21日(火)。その日は、夜の8時まで姉が付き添うことになっていた。
 昼間、私はほんとうに久しぶりに自宅のあちこちを片付けて掃除をし、五月人形をやっと片付けた。
 夜には、姉と交替しなくてはならない。ここのところ、息子のRの喘息の具合があまり良くなく、とても心配だった。しかし父も放っておけない。後ろ髪を引かれる思いで、夜、自宅を出た。

 父は寝ている間中、両手を動かして何かを引っ張ったり取ろうとしたりする動作を繰り返していた。夢でも見ているのだろうか。落ち着いて、ぐっすり眠ることすら許されないのか。

 22日の午前1時。父はずっと目を覚まして何かしゃべっていた。私は、届いたばかりの液体サメ軟骨を、スポイトで1滴ずつ、ゆっくりと父の口の中へ落とした。舌下でも吸収されるらしい。濃縮タイプなのでごく少量だし、冷たくて味もあまりないので、楽に飲めたようだ。 
 (どうか、どうか、効いてほしい。どうかこれで、癌細胞がアポトーシスに陥りますように。まだまだ負けない!)
 1滴ずつ、祈るような気持ちだった。

 しかし、そのすぐあとの1時半頃、看護婦さんが「アーチスト」という薬を持ってとんできた。脈拍が150くらいになっているらしい。すぐに薬を水に溶かしてのませたら、少しの後、脈拍は100になった。
 薬は、「アーチスト」の他に「サンリズム」、「セロケン」など、日によって違うものが出されていた。

 午前2時過ぎ、私は横になったが、3時には目が覚めた。父も目が覚めているようだ。

 その日の夕方、また姉と交替した。
 
 しかし、夜の9時過ぎ、電話が鳴った。主治医のN先生からだった。
 なんと父が、一時的に呼吸停止に陥ったというではないか。すぐに回復して、バイタルは安定していると先生は言ったが、やはり心配で、私は急いで病院へ駆けつけた。

 さっきの電話では、痰の吸引中、急に呼吸が止まったという説明だったが、姉の話では、看護婦さんが、卵豆腐に薬を混ぜて父にのませようとしたら、むせてのどに詰まらせたという。いずれにしても、嚥下困難の状態だから、こうなっても不思議ではなかったのかもしれない。(しかし、いくら卵豆腐が柔らかいといっても、砕かずに塊のまま口に入れるのは、危険だ。)
 結局、鼻から胃へチューブを入れることに同意するしかなかった。

 父は、目を覚ましていた。とても静かな目をしていた。声が出ても言葉にはならない。どんなにか自分の言葉を伝えたいだろうに。死を覚悟してこんなに静かな目をしているのか、死というものへの恐怖に独りで耐えているのだろうかと思うと、それを分かち合えないことが、たまらなく悲しく、そしてくやしい。
 娘の私には遠慮があって、病人のわがままも甘えも出さずに辛抱しているのだろう。母になら、きっと正直な自分を出せるはず。しかしその母も正常な思考能力を失いつつある・・・。父は最後まで孤独であるのかもしれない。

 父の横で、姉は付き添い用のベッドの上で眠っていた(姉も、まだ体調が完全に戻っていたわけではない)。
 私は、朝までずっと父に付いていたいと思った。でも、息子のからだのこともまた気がかりで、仕方なく病院を後にした。

 午前1時50分。対向する車もほとんどない。真夜中の暗い夜道をひとり車を走らせていると、いつも、真っ暗な空に吸い込まれて行くような気がする。

 大きな川にかかる長い橋の上にさしかかった。対向車はいない。急に、涙がどっと溢れてきた。前が見えない。思わず、右足に力が入る。ぐ〜っと床までアクセルを踏み込もうとした。
 このままいっぱいに踏み込めば、楽になれるかもしれない・・・そんな気がした。
(おとうさん・・・。私も、同じところへ行きたい。)先に行こうか・・・。

 一瞬、頭の中が真っ白になっていた。橋を渡り終えた交差点の赤信号が、目に突き刺さった。



転院中止

 5月23日(木)の朝、Oさんが戻ってきてくれた。11時頃病院へ行くと、父の口の中を、小さなスポンジの付いた専用の道具で、きれいにしてくれていた。父は、とても気持ちが良さそうだった。私と姉では、やはり行き届かない。

 鼻から胃へチューブを入れてから、初めての食事がきた。重湯、すまし汁、牛乳、ジュースだった。とても食事と言えるものではないが、止むを得ない。
 チューブが入ると、もう自分の口で食べることはできない。確かにおなかはいっぱいになるのだろうけど、もはや食事しているとは言えない状態である。
 この日も、サメ軟骨エキスを1本(5ml)だけスポイトで口の中へ入れた。

 翌日5月24日(金)。朝10時過ぎにN先生から電話があった。「最後に、お話が・・・」と言う。私は転院決定と受け止めて、11時に病院へ行った。
 
 前に、2度目の余命宣告を受けた部屋へ呼ばれた。N先生と婦長の他、看護婦さん2名と緩和ケア室の女性が同席した。

 N先生から、改めて今の父の病状についての説明があった。
 きのう撮った胸のレントゲンで、胸水が溜まっていることがわかったという。これはかなり深刻な状態だと思った。
 なのに転院なのか・・・やり切れない。どうか、ぎりぎりでキャンセルになるようにと思った。退院時の支払いもあすできるよう手配し、Oさんに使ってもらっていた寝具の使用料も精算、転院時に父に着せる寝巻きも用意し、準備万端整えておいた。そういうときに限って・・・ということを見込んで。

 そしたら、ほんとうに転院は中止になったのである。夕方4時にN先生から電話があり、○病院から受け入れを断ってきたことを知った。
 なんでも、病室に酸素吸入の設備がないことを理由にしているらしいが、そんなこと、酸素ボンベを持ち込めば解決することである。最初にこちらが受け入れを打診した時と比べて、病状が格段に悪化したので、いざとなったら二の足を踏んだのだろうと思った。
 ほっとした。いま父を動かすのは、あまりにもかわいそうだ。



もはや・・・

 5月25日(土)。うまく痰が出せず、きのうからネプライザーを使っているという。
 しかし、どういう加減か余計にゴロゴロと音がして苦しく、看護婦さんに吸引してもらうのだけれど、これまたうまく取れない。
 痰を吸引するために、鼻やのどの奥まであんなチューブを入れられたら苦しくないわけはなく、見ているのがつらかった。

 呼吸もさらに苦しそうに見えた。唇の内側の、歯に当たるところからは出血して痛そうだった。Oさんが、口から食事を摂ったりしゃべったりしないと、こうなってしまうのだと教えてくれた。

 私が帰ったあと、教え子だった女性がお見舞いに来てくれたそうだった。
 Oさんから聞いて、その女性にお礼の電話を入れた。
 その方の話だと、父は教え子の方だとわかったのか、目をあけて大きな声を出したり、手を動かしたりして応えたという。やはり、多分、意識はまだまだはっきりしているのだろう。

 その日、サメ軟骨エキスは、2本飲ませた。
 しかし父の苦しそうな表情を見ていると、わたしは苦痛を引き延ばすだけの延命をしようとしているのではないかと、自分のやっていることに不安を覚えたのは確かだった。

 Oさんの話では、やはり夜、ことが起きるという。

 翌日の午後病院へ行くと、父は酸素マスクをつけていた。
きのうより、また悪くなっている・・・。つらい・・・。

 酸素マスクをはずすのも憚られて、この日はサメ軟骨エキスを飲ませるのは断念した。

 その日も、口の中をそうじするときはちゃんと口をあけたそうで、意識はあるようだとOさんは言ってくれた。痛いのか苦しいのか、ギュ〜ッと顔をしかめることもあった。
 とにかく、強い呼吸困難だけは起きないで欲しい。

 Oさんは、苦しいはずなのに、この状態で長くいるのはかわいそうだと言った。ゆうべも、もしかすると今夜はもう・・・と思ったらしい。
 流動食も、ゆうべ入れた分を、きょう吐いてしまったという。もはや胃が働いていない。
 
 Oさんは、夜中もほとんど眠っていないことが、言われなくてもよくわかった。夜中だけでもわたしが代わらないと、Oさんが倒れてしまう・・・。

(医師も看護婦さんも何も言わなかったが、後から思うと、Oさんには、父がそのときどういう状態であったか、よくわかっていたようである。でも彼女は・・・それをわたしに伝えることはとてもできなかったのだと思う。なぜなら、わたしがその事実をとても受け容れるようには思えなかったはずだから。サメ軟骨エキスを最後まで父に飲ませようとするわたしを、Oさんはただ黙って悲しそうに眺めていたことに、わたしは気がついていた。)

 後ろ髪を引かれる思いだったが、Oさんに父をお願いして、わたしは病院を後にした。
 その夜、私は服のままで少しだけ眠った。



おとうさん・・・!

平成14年5月27日(月)。
朝からいいお天気だった。
子供たちを学校へ送り出す前の、忙しいひととき。

7時15分。電話が鳴った。
悲しいけど、どこからの電話なのか、心の中でわかっていた。
あわてて受話器を取った。
「○○大 ○病棟5階です。」と若い女性の声がした。
「はい」と言うのがやっとだった。
何かが下がってしまっていると言ったようだが、動転してしまって聞き取れなかった(多分、血圧と言ったのだろう)。
聞き返すこともできなかった。
「落ち着いて、あわてずに気をつけてきてください。」とマニュアルを読むような感じで言われたように思う。
わたしは、力なく受話器を置いた。

「行ってきまーす!」
玄関で子供たちの声がした。
一瞬、どうしようかと思った。
彼らも連れていくべきか・・・。
いや・・・まだ決まったわけじゃない、と思った。
(やっぱり連れて行くべきだった。馬鹿なわたし。)

そうだ、母と姉に知らせなくては・・・。

とにかく早く行かなくては。
そのままの格好で車に飛び乗ろうとした。
夫が、待ってくれと言う。
2階へ上がって着替えているようす。
(何ぐずぐずしてるのよ・・・)
イライラしたが、なぜか言えずに階下で待っていた。

やっと家を出た。
7時半になってしまっていた。
スピードを出さない夫の運転に、またイライラした。

車の中で、わたしは、用意していた便箋に、Oさんへの手紙を書き始めた。
最後の最後まで、家族以上のあたたかい行き届いた看病をしてくれたOさんに、せめて感謝とねぎらいの気持ちを伝えなくては。

字が乱れた。
涙がこぼれた。
止まらない。
言葉が出ない。

Oさん・・・あなたという方は、ほんとうに父のことを最後まであたたかく見守り、昼夜なく看病にあたってくださいました。
まさに天職ですね。
「ありがとう」と感謝してもらえることがうれしくて・・・と、仕事への思いを語ってくれた。
患者の家族への思いやりも決して忘れない方。


途中で朝の渋滞に引っ掛かってしまった。
進まない。
車から降りて、走り出したくなった。

8時を回って、ようやく病院の門をくぐった。

エレベーターも待てなかった。
私は、階段を2段ずつ、5階まで一気に駆け上がった。

そして走った。
父の病室の前に、Oさんがうな垂れて佇んでいるのが目に入った。

ドアをあけた。
N先生と看護婦さんたち。
婦長も姿をみせた。
病棟医長のT先生も。
C先生の顔も、廊下に少しだけ見えた。

心拍60。
もう、下顎呼吸の状態だった。
おとうさん・・・!

先生と看護婦さんたちが、一旦部屋から出て行った。
Oさんにも中へ入ってもらった。
Oさんは、家族以上の人だから。

父の目がかすかにあいている。
Oさんが、私が来る前は閉じていたと言った。
おとうさん、私が来たことわかってくれたの?

どうすればいいのだろう。
なすすべがない自分がいた。

口の中に痰が出てきたのか、泡が出ているのが見えた。
Oさんに、吸引しないのだろうかと聞いた。
吸引すると、何か支障があるかもしれないような返事だった。

そこへちょうどN先生が見えたので、吸引してもらった。
そしたらやはり心拍が下がってしまった。
40から30へ・・・・・。
そしてゼロになってしまった。
8時17〜18分頃だった。
「心臓マッサージはどうしますか?」とN先生に聞かれた。
心臓マッサージはかねてお願いしてあったことだが、母と姉がまだ来てなかった
ので、やはりお願いすることにした。

ちょっと戸惑いながら、N先生が心臓マッサージを始めた。
でも、モニターに、はっきりと心拍が出ない。
T先生に交替した。

わたしは、父の足元に立って、父の足をさすり続けた。
滝のように涙が流れ落ちた。
そんなわたしの顔を、T先生が振り返って見た。

8時半になって、ようやく母と姉が到着した。
母には、今の状況が・・・理解できるだろうか。
理解できないかもしれないと思った。

それから5分くらい心臓マッサージを続けて、N先生が、「もういいですか?」というように目を合わせてきた。
わたしは、黙って大きく頷いた。
頷くしかなかった。

N先生が瞳孔の散大と心拍がないことを確認した。
「私の時計で、8時38分です。」と告げた。

婦長がわたしに「よくしてあげたね」と言った。
でも・・・わたしは、父を助けることができなかった。
わたしは、何もできなかったのだ、何も・・・。
必死に生きようとした父を、助け起こすこともできず、癌という忌まわしい病気に、勝つことができなかったのだ。


おとうさん・・・ごめん。
おとうさん・・・もっと生きたかったのにね。
やっと痛みから解放されたけど、命と引きかえだなんて、悲しい。
どうして、いってしまわなくてはならないのか。
おとうさんが、いったい何をしたというのだ。


なんとかして、絶対に治そうと思っていたのに・・・くやしい!
おとうさんが死ぬなんて。
そんなこと。
うそだ。
あんなに元気だったのに。
わたしは信じない。

父の額も、父の頬も、ほとんど温もりがなかった。
さっきまで、かすかにあいていたようだった目も、静かに閉じられていた。
穏やかな寝顔だった。
こんな穏やかな父の寝顔を見るのは、これが最初で最後なのだろうか。
もう二度と・・・目をあけてくれないの?


それから少しの後、別室へ呼ばれた。
多分「あのこと」を言われるのだろうと思った。
(解剖のことだ。)
返事は用意してあった。

父が悪液質の状態だったこと、癌の進行が非常に速かったことなど、N先生からいくつか説明があった。
進行が速いということは・・・未分化癌だったのではないかと聞いたら、未分化癌なら、進行の速さはこれどころではないとのことだった。

そしてT先生から、強制ではないが、遺体を解剖して他の患者さんの役に立てたいのだが・・・と申し出があった。
わたしは、間髪入れずに答えた。
「お世話になったのに申し訳ないのですが、その件はお断りさせていただきます。」
これだけは、きっぱりと言わせてもらった。
これは、わたしの意志だ。
父は何と言うかわからない。
でも・・・これ以上父に痛い思いをさせて、体に傷をつけて、どうするというのだ。
同じ病気に苦しむ人たちの役に立てるなら、と理解を示して応じるのもひとつの選択だが、わたしにはとてもできなかった。
どうか父を、静かに眠らせて。

T先生は、わたしの返事はわかっていたようだった。
多分、他の患者の家族も、同じ返事をする人が多いのではないかと思った。

まさか、家族に無断で解剖を行うということはないと思うが、念のため、わたしは剖検室の場所は前もって確認しておいた。
しかし・・・もし解剖を了承すれば、即座に、24時間経過するのも待たずに解剖を行うのだろうか。
いくら研究のためとはいえ、病との闘いに敗れ傷ついたかなしい命を冒とくしているように思えてならない。

父のところへ戻った。
看護婦さんたちが、体をきれいにしてくれているところだった。
いっしょに拭いてあげてください、とひとりの看護婦さんが、わたしにタオルをくれた。

看護婦さんたちは、何やら楽しげだった。
彼女たちにとって、これも仕事のひとつなのはわかっている。
にこにこ笑っている人もいる。
しかし、その笑顔はわたしの胸に突き刺さった。
この病棟では厄介者だった父が亡くなって、彼女らはほっとしたのだろうか。
悲しみがよりいっそう深くなるのを感じた。


Oさんが、ゆうべからの父の様子を話してくれた。
父は、いびきをかいて寝ていたそうだが、午前3時頃急に静かになったらしく、あわててナースコールしたらしい。
血圧が下がり始め、尿量も減り始め、体温が35度台になり、だんだんと近づいているのがわかってきたらしい。
Oさんは、早く家族に連絡をと看護婦さんに言ってくれたそうだが、先生に聞いてからでないとできないと言って、若い看護婦さんは取り合ってくれなかったらしい。
やがて少し年輩の看護婦さんが連絡するよう言ったため、やっとわたしに連絡がきたということだった(それが、7時15分だった)。

Oさんが、ひと晩中寝ないで父を看ていてくれたから、容態の変化にいち早く気がついたのだ。
できれば、看護婦さんがもっと早く私に連絡をくれていたらよかったと、あとで思った。


婦長にせかされてあわてて部屋の荷物を片付け、迎えの車を頼んで病院を後にしたのは、11時だった。
こんなところに?と思うような裏口から、こっそり出された。
死は、病院にとってこの上ないタブーなのだと、改めて思い知った。

N先生とT先生、婦長と新人看護婦さんのNさん、そしてOさんが見送ってくれた。
きちんとあいさつをと思ったのに、涙をこらえ切れず言葉にならなかった。

元気になって退院し、笑ってくぐるはずだった病院の門を、父は無言でくぐり、帰りたくても帰れなかった自宅へ、5ヶ月ぶりにやっと戻った。


悲しいくらい空が青かった。
夏が近いことを思わせる、晴れ渡った空・・・。

人ひとりいなくなったって、いつもの風景は何も変わることがない。
道には車や人が行き交い、川は流れ続け、この世から消えたひとつの命のことなど、誰も気にも留めやしない。

なんてはかないのだろう。                    





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