父の闘病記1(発病・入院)

闘病記を書くにあたって

 父がまだ入院したばかりの頃、治ったら闘病記を書こうと話し合ったことがあった。私は喜んで同意したのを憶えている。
 もちろんその時、父も私もいつかは病気が治って退院して家へ帰るのだと信じて疑わなかった、というよりそれが当然のことだと思っていた。今まではいつだってそうだったから。
 
 今私は、闘病記を書くことがかなわなかった父に代わって、父が果敢に闘った足跡を今一度辿り、書き残しておかなければならないと思う。どんなときにも・・・たとえ自分の命が癌に脅かされているという事実を知ったときでも、常に前を向いて生きた父の勇気と苦悩と哀しみ、そして私たちを支え続けてくれた人たちへの感謝の気持ちを忘れないために。
 
 父が闘病に終止符を打ってから、既に1年近くの月日が過ぎた。でも、私の心の中ではまだ闘いは終わっていない。ずっと心の底でくすぶり続けるものを感じながら、父の死を受け容れられぬままの自分が今ここにいる。
  いったい何をどうすれば前へ進めるのだろうとずっと思案し続けてきたが、自分で出した結論は、胸の中のものをすべて吐き出して、直面しながらも解決できなかったいろいろな問題について、今一度考えてみるということだった。

  そして自分の人生の折り返し地点を過ぎた今、父の闘病をきっかけに、自分のこれまでの人生をも一度振り返ってみる必要があるような気がする。


 父の病気のことを自分なりに調べながら、癌の中でも症例があまり多くないということで、参考にできる情報の少なさに落胆した。しかもこのタイプの癌でこれだけ進行した例は聞いたことがないという医師もいた。父と同じ病気と闘っておられる方がもしいたとして、私の書くことがどれだけ参考になるかはわからないが、もしほんの少しでも役に立つ情報が提供できたなら、幸いである。



発病

 そもそも父の発病は、8年近く前に遡るのではないだろうか。

 私が2度目の出産を終えた平成7年の夏、実家に電話しても両親共に不在であることが何日か続いた。その頃、生後間もない息子と産後で体力が落ちていた私は、手足口病にかかって大変な目に遭っていたので、すぐに様子を見に行けなかった。
 後になって、そのとき父が、ある公立病院で慢性膿皮症(肛門周囲膿瘍)の手術を受けていたことがわかった。私が見舞いに駆け付けたときは、もう退院も間近だった。

 ベッドが空いていたからというだけでその公立病院へ入院することになったらしいが(実際痛みが激しくて、待ったなしだった)、それが父の人生の明暗を分けたのかもしれない。
 やはり大学病院でもないと、病変部の組織検査などやらないものらしい。手術から3年後、また痛み出して近所の○病院で排膿の処置、そしてさらに3年余り経った平成13年9月、再び痛みに襲われたのだが、今度は患部が硬く腫れ、とても座れる状態ではなかった。

 あまりの痛さに、父はやっと肛門科の専門医を訪れた。先に掛かっていた近所の○病院では痔瘻の疑いがあるというので、父に頼まれて、私は手術の腕のいい肛門科の医者はいないかと、探していた。括約筋を切らずに痔瘻を治してくれる医者を。

 しかし肛門科の△先生は、痔瘻なんかではないのですぐに大きな病院へ行くようにおっしゃった。それでもまだ、父は○病院の院長に紹介状をもらいに行けないと言う。義理なんか、何なのだ。これだけ痛んでいるのに。結局私が院長をたずね、紹介状をもらった。
 院長は、また前に父が手術を受けた病院での受診を勧めた。大学病院の外科は臓器移植の研究で忙しく、父のような病気はまともに取り合ってもらえないと言う。それでも私が院長の勧めを断ったので、渋々大学病院への紹介状を書いてくれた。そして翌々日の平成13年11月14日、父は○○大学病院にて受診した。

 地方に住んでいると、病院の選択肢はあまりない。最先端の医療に少しでも近い治療を望むなら、大学病院の門を叩く他ないのである。



受診

 父は大学病院の外科宛に紹介状をもらっていたが、診察の後、皮膚科での診察も指示された。それが何を意味するのか、そのとき父にも私にもわからなかった。

 皮膚科では、患部に麻酔をかけて組織の一部を切り取り、病理検査に回すということだった。処置の途中で父が私を呼んだのでそばへ行った時、私は初めてまともに患部を見た。聞いていたのとは程遠い、見るからに痛々しい感じだった。○病院で痔瘻と言われていたので、瘻管の出口が(肛門を中央に見て)時計の何時と何時の向きにあるのかと父母に尋ねたことがあったが、HPの写真で見た瘻管の出口などとは程遠い、赤く大きく腫瘤のようになった部分がいくつかあった。

 どうしてもっと早くこの目で見てやらなかったのかと、自分を責めた。これは普通ではないと素人でもわかる。なのに、あの院長は・・・。いい加減な診断で放置されていたことが、ただただなさけなかった。
 
 皮膚科ではあす入院するよう言われたが、父は1日だけ時間が欲しいと言った。その1日で、300通余りは出す年賀状のうち書けてなかった分をすべて書き上げたのだった。



入院

 平成13年11月16日(金)の朝、父は皮膚科病棟へ入院した。置いてきた母のことが気がかりでならないようだったが、止むを得ない。父も私も、年内に退院するのはむずかしいかもしれない、くらいにしか考えてなかった。 
 
 院内のCTもMRIも予約でいっぱいなので、院外の別の病院で撮ってくるようにと担当の先生から指示があり、夕方出直した私は、父を車に乗せて近くの病院へ向かった。

 痛みで座れない父は、立ったまま食事をした。早く座れるようになって、ゆっくり食べさせてやりたかった。

 入院して数日後、私は父から1枚の書類を渡された。手にとって見ると、次の3つのことが書かれていた。
 
 1.診断    肛門周囲膿瘍, 皮膚腫瘍
 2.症状    肛門周りの繰り返す化膿巣と、その部分にできた硬い皮膚の塊
          り。
 3.見通し   まず徹底的に検査。おそらく、肛門及びその周りを切り取らなけ
          ればならなくなると予想される。

 私は衝撃を受けた。父は何も言わない。私も、言葉がみつからなかった。“人工肛門”という4つの文字が浮かんだ。
 父はそれからしばらく、骨シンチ、Gaシンチ、大腸内視鏡など、一連の検査を受けた。検査の結果が出揃って、私は主治医に指定された11月29日の夜、父の病室へ向かった。





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