父の闘病記2(告知・摘出)

告知

 平成13年11月29日の夜7時、私は父と共に病室にいた。父が一緒ということは、あまり深刻な話ではないのでは・・・と、私はやや楽観的に構えていた。父から、組織検査の結果は問題ないらしいとも聞いていたので。

 少しして、主治医の先生が見えた。先生の表情も明るく、私は正直ほっとした気持ちだった。
 先生は「一応、病名言っときますね。」と分厚いバインダーノートを開きながら前置きした。(「一応」ということは、大した病気じゃないのだろうか・・・医師の言葉ひとつひとつに心が揺れた。)そして「ユウキョクサイボウガンです。」と、さらりとおっしゃったのだ。聞いたことのない病名だが、しかし確かに「ガン」と聞こえた。
 
  父と私が絶句していると、紙に病名を書いて見せて下さった。「有棘細胞癌」と書かれている。ショックで言葉が出ない私たちだったが、先生は表情を変えず、「癌といっても転移するのは100人に5人、進行の遅い癌です。だからこうやって告知したのです。」と続けた。

 化膿と治癒を繰り返すうちに、遺伝子がおかしくなって癌化したという説明だった。今のところ肛門括約筋には浸潤していないようだが、病巣から3cm離して切除するとなると、肛門は残せないことになるとのこと。無理に肛門を残せば再発の危険性は高くなるが、選択肢のひとつとしては残されていた。仮のストマ(人工肛門)を造設したあと病巣を切除、その傷が治ればまた自然肛門に戻すという方法だった。

 50分間で説明は終わった。9時の消灯までまだ少し時間があった。外は真っ暗な闇に包まれて、衝撃的な告知を受けてしまった気持ちと同じ色だった。父と同時に告知を受けてしまったのでは、父にどう言ってやればいいのか考える時間すらない。ほとんど転移しないということだから前向きに考えようとしか言えなかった。
 しかし医学の素人にとって、「癌」という言葉は即ち死を意味するものだと言っても過言ではない。父は「自分でなんとなく駄目だと思うのと、誰かからはっきり駄目だと言われるのとでは全然違う。」と言った。そして、修行を積んだはずの人でも癌の告知を受けてまともでいられなくなった人もいるらしい、とつぶやいた。

 こんな夜に、父ひとりを病室に残して帰るのはなんという親不孝だろうと思った。前もって聞いていれば、せめて一晩一緒にいてやれるよう手はずを整えることもできたのだ。
 後ろ髪を引かれる思いで部屋を出て、ナースステーションの前を通ると、主治医が声を掛けてきた。「睡眠剤、出しましょうか?」。さっきと同じ、明るい表情だった。今父に必要なのは薬なんかじゃないと言いたいのを、ぐっとこらえた。



最初の手術に向けて

 癌の告知を受けた4日後の夜、父と私は最初の手術の説明を受けた。皮膚科、外科、形成外科3科の共同で行うことになっていたので、各科の先生が揃った。
 話の焦点は、どういう手術をするか、つまり肛門を残すか残さないかということだった。ストマ(人工肛門)に最初から抵抗を感じない人などいないはずだ。父には、なんとかして肛門を残したいという強い希望があった。排尿の機能についても問題が起こりそうで、心配なことはいくらでもあった。
 
 しかし仮に残せても、肛門括約筋が損傷を受けたら機能を果たさなくなる。なんとかならないものかと思った私は、いろいろ調べているうちに、肛門括約筋を作るという方法があることを知った。もちろん広く一般的に行われている方法ではない。しかし、執刀医にきちんと希望を伝えましょうと書いてあったので、父のためだと思い、たとえ外科のY先生にお叱りを受けてもいい、言わずに後悔するのは絶対いやだと思って、勇気を出してお願いした。
 
 Y先生はもちろんその方法はご存知だったが、返事はYESでもNOでもなかった。「一理ある。」とだけおっしゃった。結局開けてみないと何とも言えないことだった。Y先生は、最初の手術は言わば検査のための手術だとおっしゃった。病変部がどこまで拡がっているのか、画像診断ではわからないのか、たくさん撮ったはずのCTやMRIの写画像も一切見せてもらえなかった。

 形成外科のI先生は、化膿巣すべてが癌とは限らず、奥の方は大丈夫なのではないかという楽観的な見解だった。Y先生にも同意を求めていた。そもそも、癌細胞がどことどこにあるのか、特定できていなかった。
 癌が取り切れて肛門も残せる場合、手術は3回、つまり、1.癌の摘出(化膿巣も含めて)ストマの造設、、2.それに伴う植皮手術、そして、3.ストマを自然肛門に戻す手術である。しかし肛門を残さない場合、手術は1回だけということだった。 
 僅かでも望みがあるなら、肛門を残したいと誰もが考えるのではないだろうか。



手術

 どこの病院も、緊急手術以外は予定が詰まっているのか、父が1回目の手術を受けたのはそれから2週間もあとの平成13年12月13日だった。入院してからひと月近くも過ぎ、この間に病気が進行しないのかと不安になる。

 手術は午前9時開始。夕方くらいまでは掛かる見込みだった。これまでに2度、母が手術場へ入るのを見送ったことがある。私が父を見送るのは初めてだった。ストレッチャーに乗せられて奥へ運ばれるのを見送るのは、とてもつらい。どこか遠い所へ連れて行かれるような気がする。

 同じ時刻に、その日手術を受ける患者が何人か集まるのだが、イヤだと泣き叫ぶ幼い子供や一緒に泣きそうになりながらなだめる母親の姿などを見ると、つい自分とわが子に置き換えてつらくなる。親の手術でもこんなに不安でかわいそうでたまらないのに、わが子だったら自分の身を切られる何倍も辛く、代わってやりたいと思うはずだ。
 私の母は、手術室に入ってから大声で泣き出した男の人と行き合わせたことがあったらしい。そのときの母の気持ちも察するに余りある。
 子供だけではない、大人でも手術は怖い。わが身を切られるのが怖くない人などいるはずがない。

 常に前向きな父のこと、きっとしっかりと覚悟を決めて手術室に向かったに違いない。手術前に限らず、病気と闘っている人に「がんばって」と声を掛けるのは絶対に禁句だ。父も言っていた。これだけ頑張っているのに、これ以上どうしろと言うのだと。
 励ます言葉はなくてもいい。ただ、心の中で手術がうまくいくことを祈るだけ。黙って父のそばに寄り添い、離れる時私はこう言った。「おとうさん、あとでね。」

 手術の後、父はICUへ入ることになっていたので、家族はICU待合室で待つように指示されていた。
 他にも待っている人が大勢いた。待っても待っても手術が終わらず、12時間以上待ったことがあるという話をしている人や、生後間もない赤ちゃんを待つ若い両親と祖父母もいた。待っている人たちがひと組ずつ減り、夕方を過ぎて私ひとりになってしまいそうになった。

 家では、おたふく風邪にかかった息子達と、その看病のため仕事を休んでくれた夫が待っていたので、何度も電話を入れた。夫には、私がよく家を空けるので度々早退・欠勤をさせてしまい、職場での立場もつらくなっているのではないだろうか。申し訳ない、でも止むを得ない。甘えるしかない。いつもごめんと心の中でつぶやいた。

 じっと座っているのもつらいので、気を紛らわそうと思った私は廊下へ出て、父が先月書き上げた300通余りの年賀状を都道府県別に仕分けすることにした。日本全国、あちこちに父を知っている人がいる。昔の教え子の方々、仕事でお世話になった方々、親戚の人たち・・・私の知らない人が殆どである。これが最後の年賀状になったらどうしよう・・・と急に不安に襲われあわてて打ち消した。

 年賀状の仕分けも終わり、時計が午後6時近くをさしていた頃、ようやく主治医から手術が終わったことを告げられた。
 父のベッドへ案内された。形成外科のI先生が、父に声を掛けてみますかと言ってくれた。父は麻酔から覚めたばかりで苦しそうだった。声を出すが言葉にならない。おまけに寒くてガタガタ震えている。歯がガチガチ鳴るくらい。電気毛布がまだ温まっていないのだという。どうして早めにスイッチを入れておいてくれないのか!
 そんな状況でなんと父が冗談を言った。聞き取りにくい声だったが、自分の歯がガチガチ鳴るのを「神田川という歌があった。」とか言い出したので、看護婦さんが「それは石鹸がカタカタ鳴るんでしょ?」と答えてくれた。こんなときに冗談が出るなんて、と看護婦さんも私もびっくりした。



手術の結果

 父に声を掛けた後、ICUの一角で4人の医師から手術の結果の説明を受けた。
 さっき形成外科のI先生と顔を合わせたとき、その表情が冴えないのに気がついていたので、あまり良い結果が聞けそうにないことは覚悟していた。

 病変部から2cm離して拡大切除し、肛門は温存した。摘出した化膿巣の大きさを聞くと、直径約11cmとのこと。術中デジカメで撮った要所ごとの画像と摘出されたものを見た。肛門括約筋にも癌(おそらくは)が噛み込んでいて剥離するのに苦労したとのこと。括約筋も少し切除したらしい。肛門機能は経過を観察する。
 化膿巣の外側は、術中の迅速生検で「」と出た。中の方は検査の結果待ち。化膿巣の内部から発生した癌であることは間違いないという。ということは中も・・・。
 鼠径部リンパ節も、右側はかなり大きくなっていた。硬くなっている箇所もあった。これも生検へ。

 このときの説明は、後から思い出しても非常にわかりにくかった。ノートに書き留めた内容もバラバラ、どこがどうなっているのか頭の中でイメージがわいてこない。どうも、標的とするべき癌の存在が明確でなく、どこに潜んでいるのか骨盤の中をすべて調べてみないとわからないような印象を受けた。

 父のそばへ戻った。どうも痰がうまく出せなくて苦しいようだ。看護婦さんを呼んで吸引してもらう。自分でナースコールなんかできない。モニターで監視しているから安心だといっても、自分で苦しさを訴えることができない以上、まだ一般病棟にいて家族が付き添っている方がましだと思った。最近新病棟ができてICUのベッド数が増えるまでは、術後すぐ一般病棟へ戻っていたわけだし。
 「ものすごく痛かった。息が苦しかった。もう二度と(手術は)したくない。」と父は息も絶え絶えに訴えるので、かわいそうでかわいそうでならなかった。私は、弱音を吐く父を生まれて初めて見た。母の2度の手術の後も苦しそうだったが、今思えば母は言葉を発する元気もなかったようである。

 回診があるからということで、患者の家族は外へ出された。何人かの人が文句を言っていた。家族はガウンを着て手を洗ってICUへ入るのに、どうして先生たちはそのままなんだ。ドアも静かに開け閉めすればいいのに音をたてるし、静かに歩けばいいのに足音がうるさい。重病の患者ばかりが寝ているところで、いったいどうなっているのだろう、と。同感だった。

 後ろ髪を引かれる思いだったが、病気で寝ている息子や夫のことも頭をかすめ、私は病院を後にした。父は「あしたも来てくれよ」と力なく言った。                    





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