父の闘病記3(リンパ節転移)

術後の経過

 手術の翌朝、突然、父がICUから皮膚科一般病棟へ戻るという連絡を受けた。時計を見ると、迎えの時間である午前11時まで、50分しかない。2〜3日は入っていると聞いていたのに・・・と思いながら、取るものも取り合えず病院へ駆けつけた。
 
  ICUからベッドに寝かされたまま出てきた父は、昨晩と打って変わって元気そうな表情で、驚いた。主治医の話では、本人の希望で一般病棟へ戻ることになったが、父の今の状態だとなんら問題はないという。枕元ではいろんな医療器械がうるさく音をたて、足元では、看護婦さんが患者のデータをパソコンに打ち込んでいるのか、カシャカシャとキーボードを叩く音が響き続け、、眠れなかったのだと言う(そうでなくても、手術の後で気持ちよく眠れるはずはないと思うが)。
 高齢者の場合、長くICUにいると極端な場合は痴呆の状態まで引き起こすこともあるらしい。そういえば、身内でも「ICUシンドローム」の状態を経験したという者がいたように思う。

 母の手術の時は、術後1週間はずっと付き添いが必要だった。回復が遅い方だったのかもしれない。日頃元気な父は体力もあるのか、もとの病室へ戻るとテレビを見ると言い、よくしゃべったが、さすがに新聞は読まなかった。
 
 夜、外科の先生が腸の動きを確認し、水分の摂取が許された。氷を口に含むくらいなら、水分の許可が下りる前でも大丈夫と言う看護婦さんもいたので、父は既に小さな氷を口に入れていた。いつ頃から術後の硬膜外ブロックという処置をしてもらえるようになったのか知らないが、12年前の母の手術の時みたいに、何度も痛み止めの注射を頼むということをしなくて済んだので、そばに付いていて気分的に楽ではあった。

 この病院は完全看護という建前になっていた。いや、「完全」でなく「基準」看護だと言う人もいた。どちらが正確な言い方なのか知らないが、急に一般病棟へ戻ったので、付き添いの問題が出てきた。ほんとうは、病院側に任せて家族は帰らなければならないそうだが、病院側の本音は、家族が付き添って欲しいということのようだった。夜間は看護婦さんは2人しかいないし、もちろん心配なので一晩付いているつもりだったが、あくまで患者側から希望を申し出て、病院側が許可するということになっているのは変だと思った。

 自宅と病院を何回か往復し、夜10時に病院へ戻って父に付き添った。明け方までずっと、寝言ばかり言って、あまり熟睡していないようだった。

 急に父に付き添うことになったせいもあり、息子のRの話では、弟のNはひとりベッドで泣いていたらしい。「お母さん早く行けば?」と私の前では強がっていたけど、やっぱりまだ幼い。「N、R、ごめんね。」夫と息子たちには負担ばかり掛けて、ほんとうに申し訳ない思いでいっぱいだった。
 
 その翌日12月15日(土)のお昼から、父は流動食を始め、12月19日(水)には、術後初めてベッドから降りて歩行器を使った。順調に回復しているように見えて、とてもうれしかった。



ストマ(人工肛門)について

 大学病院ではあっても、皮膚科の病棟には、ストマのケアの経験がある看護婦さんはひとりもいなかった。外科病棟の看護婦さんが見に来てくれたと父から聞いたが、一度きりだった。ストマのケアは、当然ながら私の仕事となった。

 ストマには、永久のものと仮のものとがあるらしい。父は後者だった。今だけの辛抱という気持ちが、父にも私にもあった。しかし、初めて見る装具とその取り扱い方法は、全くおっかなびっくりで、随分戸惑った。
 しかも装具には保険がきかない。非常に高価だと言えると思う。病院側では用意してくれないので、切らさないように早めに買っておく必要があった。ストマの種類(ストマをつくる場所、つまりS字結腸や小腸など、腸のどの部分か)によって異なるそうだが、永久のストマを造設して決められた期間を過ぎると、身体障害者手帳の交付を受け、装具の費用も一部自治体から援助があるということは調べてわかった。でも、父の場合は仮のストマなので、そういう制度は適用外だった。

 費用の面はともかく、取り扱いに慣れなくては困るので、図書館で本を借り、インターネットで検索し、やっとのことでなんとか扱えるようになった。少し後で、消化器外科の「ストマ外来」のことを知らされ、わざわざ東京から来たというストマの専門家だという女性から、装着法等を教わった。

 父はきちんと説明を受けて安心したと言い、少し元気が出たようだった。おなかが空かないと夕食が入らないと言って、歩行器を押してゆっくりと病棟の廊下を歩き出した。
 そのうしろ姿はなんとも切なく、今でも忘れられない。元気でバリバリ仕事をしていた頃の姿が忍ばれた。

 装具のつけ方が良くないと、ストマの周囲が炎症を起こしたし、歩くと痛かったりすることもあり、ケアには気を遣った。看護婦さんや医師に相談しても、首をかしげるだけで、外科の先生を呼んで来てくれることもなかったので、装具のメーカーの相談窓口やホームページに頼るしかなかった。



リンパ節転移

 最初の手術で摘出した病変部の組織の検査結果は、クリスマスの頃には出ると聞いていたが、まだ出ないうちに、2回目の手術日が年明けて1月10日(木)と決まった。
 私は、なかなか出ない結果に大きな不安を覚えた。父も同様であったはずだ。

 ある日の晩、私は結膜下出血を起こした母を連れて、ある眼科医を訪れた。駐車場の車の中でPHSが鳴った。主治医の先生からの電話だった。リンパ節に転移していることを告げられた。父に話すかどうかと尋ねられた。私は、遠隔転移ではないから・・・と言い掛けた。しかし、リンパ節に転移しているということは、その先へ飛んでいる可能性が高いと言われて愕然となり、口をつぐんでしまった。

 とにかく、あすの午後詳しく説明して下さることになり、電話を切った。
 今、母がいっしょにいなくて良かったと思った。後部座席で私と先生のやり取りを聞いていた息子たちにも、心の動揺に気づかれぬよう努めた。

 翌日は12月28日(金)、官庁御用納めの日だった。大学病院の先生方もいつもよりは早く勤務を終えられると見えて、呼び出された時間はいつもより随分早い3時半だった。
 その日の朝、私は父に電話することを躊躇していた。ゆうべ聞かされた事実をどう伝えるか、あるいは伝えないか、結論が出せぬままでいた。しかしきょう病院へ行く時間は、父に連絡しておかないといけない。

 そのとき電話が鳴った。主治医の先生だった。タッチの差だった。きょう病院で、先に私だけが先生方から説明を受け、その後で父にも話すことになった。
 リンパ節転移がみつかったことは、父に話すしかないと思った。でも、やはり私の口から話すことはどうしてもできないと思った。先生からお話しくださった方が、父も冷静に聞き、受け止められるのではないかと思って、先生から話していただくことにした。

 母に息子たちを預けるのは無理なので、止むを得ず私は息子たちをいっしょに病院へ連れて行った。そしたら、息子たちは先に父の病室へ走り込んでしまった。主治医の先生と顔を見合わせて、「しまった!」という言葉が同時に出たが、もう遅かった。
 父は、どんな些細なことでも見逃さない観察力や洞察力の持ち主だった。下手な小細工や言いわけも、すぐに見抜かれるはずだった。
 
 息子たちを呼び戻すことはせず、私は先生方からの説明を受けた。私だけが病室に来ないので、父は多分、何かあると感じ取ったはずだが、それを私に聞くことは決してなかった。娘に余分な心労を掛けてはいけないと思い、父なりに気を遣っていたはずである。そういう父の気持ちが、何も言われなくてもひしひしと伝わってきて、余計につらかった。

 30分間、私ひとりで先生方の話を聞いた。リンパ節転移がみつかったことで、余命1〜2年と宣告された。そんなひどい話があるだろうか。
 私は、まるで他人事のような気持ちになっていた。父のことなんかじゃなく、全然知らない全く別の人のことを聞かされているような気がした。
 2度目の手術でさらに拡大切除をしても、予後は変わらないかもしれないという。「それなら、これ以上体を切り刻むような残酷なことはせず、少しでも本人が楽な状態でいさせてやって欲しい。」と口からすらすら言葉が出てきた自分が、信じられなかった。
 しかし、父に余命だけは絶対に告げないで欲しいと頼むことだけは忘れなかった。 

 形成外科のI先生は、ひとつひとつ言葉を選んで、今の状態をとても丁寧に父に説明してくださった。しかし私は、どうしても父の顔を見ることができず、じっと前をにらんでいるだけだった。
 きょうほどつらい日が、今までにあっただろうか。(今思い出しても、涙が溢れてどうにもならない。)父は静かに話を聞いていた。冷静に受け止められる人ではあった。しかし話の中で、I先生が「最悪の結果が出たわけです。」と口調を強めた時、私は思わず耳を疑った。そんなひと言がどうして出たのか、もっと他に言い方はないのかと思った。
 
 「最悪」という言葉。それが真実なのだろう。言い方を変えても結局は同じなのかもしれない。しかし、歩行器につかまって、病室へゆっくりと歩いて戻っていく父の後ろ姿は、あまりにも悲しく、あまりにもさびしく、どうにもしてやれない自分に無性に腹が立って仕方なかった。

 そのすぐ後、ベッドに戻った父と何を話したのか、どう接したのか、ほとんど記憶がなく、その日の日記にも何も記されていない。
 多分、私はその場にいることに耐えられなかったのだろう、息子たちにせがまれて、階下にある売店へ行ったことは記してあった。
 
 自分がどんな顔で病院の廊下を歩いていたか察しはつくが、突然「○○さん!」と私のもとの姓で呼び止められて、ハッと我に返った。高校時代の同級生で、今はこの病院で麻酔科医として勤務しているA君だった。
 彼は、高校時代からみんなの信頼が厚く、思いやりのあるやさしい人物だった。外来でペインクリニックを担当しており、腰痛持ちの母もお世話になっていた。当時、偏差値の高さだけで医学部進学を選んだ人間もいたが、彼は違うと思った。私が思っていたとおりの、りっぱな医師になっていた。この病院では、痛みを取ることにかけては、彼の右に出る者はいないと他の先生から聞いていた。

 母を麻酔科外来へ連れて行ったとき、父の病気のことも話してあったので、とても気に掛けてくれていた。今聞かされたばかりのリンパ節転移のことも話した。転移は少ない癌だと聞いているけれど・・・と言ってくれた。そして、手術は免疫力を低下させるので、むやみに行うべきものではないと教えてくれた。
  
 この、冷たさを感じる病院の中で、数少ない、心がほっとしたひとときだった。(つづく)





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