父の闘病記4(リンパ節郭清)

年末年始

 とうとう父は余命宣告を受けてしまい、私はもう何をしていても胸が張り裂けそうで、どうにもならなかった。いつまでも泣いていては・・・と思っても、悲しみは涙で流してしまうしかすべを知らなかった。

 リンパ節転移の告知を受けた翌日12月29日の午後、私は父の病室にいた。父は押し黙っていた。そして、ため息をついては「せっかく見舞いに来てくれているのに、悪いな。」と言うので、「無理しないで、ため息ぐらいつきたいだけついて。」と答えるしかなかった。
 「放射線を当ててだめだったらもういい。」と弱気なことを言ったり、預金や不動産の相続のことを口に出してみたりするので、「これから治すのだから、そんなこと・・・」と言いかけて、今は無理に励ます時ではないと思った。
 でも父が「このたび癌が見つからなければ、まだ10年くらいは大丈夫だったかもしれない。」と言うので、皮膚癌の種類によっては、癌と共存して長く生きている人もいるのだと言って、結局は励ましてしまった。

 ナースステーションの中から、主治医が「まだ落ち込んでいますか?」と聞いてきた。平気な方がおかしいんじゃないかと思ったが、言葉にはしなかった。

 年末なので、入院患者の中にも外泊者が多く、院内はしーんとさびしく静まり返っていて、ますます父の気持ちをさびしくしてしまったのではないかと思う。

 「神様、あなたはひど過ぎる。これまで全うに生きてきた人間を、どうしてこんなめに遭わせるのか。なんで穏やかで静かな余生を送らせてくれないのか。」私は、日頃は信じない神に向かって、こう叫びたかった。

 私は、夜も枕を濡らすばかりだった。しかしもうひとりの自分が、泣いている暇などないのだと敢えて自分に繰り返し言い聞かせた。私が諦めたら、父はどうなる。そうだ、泣いてなんかいる時間はない。そんな時間があったら、次のことを考えなくては。

 ひとつの病院での診断が、必ずしも患者にとって正しいとは言えない場合もあるのではないかと思った。どんな病気でも、医師によって多少見方が違うこともある。かと言って、今すぐ県外の病院へ父を連れて行くのはむずかしい。頼れるのは、インターネットの医療相談、そして半信半疑だが、代替医療や民間療法のことも考えてみようと思った。昨日父がアガリクスを飲んでもいいと言ったので、試してみるつもりで注文した。
 
 その翌日の12月30日、父は昨日より少しだけ口数が増えたので、ほっとした。やはり強い人だ。私はこの人の娘なのだから、もっと強くならなくてはと思った。

 父は大みそかと元旦の日中、外出許可をもらって、自宅へ帰った。それが最後の帰宅になるとは、父も私もこれっぽっちも思っていなかった。
 お正月くらい、家で家族とゆっくり過ごしたかったはずだが、体調の悪い母や、毎日病院へ通いつめている私のことを思い、家で食事をすることもなく、わずか数時間いただけで、父はまた病院へと帰って行ったのだった。お酒もずっと辛抱していたのだから、ビール一杯くらい飲ませてやればよかったのにと、今になって思う。



選択肢

 年が明けて平成14年になった。少しずつ、2度目の手術の日が近づいてくるのだが、リンパ節郭清(かくせい)手術を受けるかどうかなど、年末に医師から提示された治療法の選択肢を、まだ選べないままでいた。
 選択肢は、次の3つだった。

1.追加切除手術を行う。即ち、直腸・肛門切除。鼠径部リンパ節も郭清。
2.1回目の手術跡に植皮手術を行う。リンパ節は郭清せず放射線と抗癌剤での
  治療を行う。
3.リンパ節郭清手術のみ行う。 

 ひとまずを選び、場合によっては、続けても行うことも考えられるという。

 放射線治療については、放射線科の先生の意見も聞きたいと申し出たのだが、どうしたことか聞き入れられなかった。こちらが依頼すれば、その通りの治療をしてもらえるから必要ないと一蹴されてしまった。それに、皮膚癌の化学療法(抗癌剤)も、この病院ではほとんど行われたことがないようだった。(主治医の先生は、ご自分は初めてだとおっしゃった。)

 そもそも父のように臀部から発生した癌は、この病院では今までに1例しかなかったということを聞いた。おそらく、この大学を卒業されてから、ずっとここに勤務されている先生の話だった。父にも私にも、この病院では最先端の医療の恩恵を受けることはできないので、がんセンターへ行きたいという気持ちがあった。しかし、病弱な母や、まだ手がかかる私の息子たちを置いて出かけることは、なかなか難しかった。何とかならないかと、いろいろ考えてはみたが。

  最初の手術の傷は、きれいに治ってきていた。回復は早い方だと言われた。消毒するとき見ると、確かに手術直後より傷が小さくなっていた。糖尿病などの持病でもあると、なかなかこうはいかないとのことだった。
 
 ストマの部分が痛いと言うので、専用のベルトをつけてみた。もともと細身の父だが、さらに痩せてしまっていた。66キロあった体重が、60キロに減ってしまったという。入院してからも、食事は頑張って充分な量を取れているはずだったのに。

 いくつもの医療相談窓口にメールを出したが、返ってくる回答は同じような内容だった。最初の手術で癌を摘り切れていないようなので、100%再発すると断言している回答もあった。

 ある日、形成外科のI先生がリンパ節を触診し、腫れているものだけでも摘出した方がいいと言われたそうである。形成外科のM教授の意見らしい。そうでないと、皮膚の表面に裂けて出てくるかもしれないらしい。ほんとうだろうか。
 この頃の私は、まだ癌の本当の恐ろしさを知らなかった。摘ってしまうことで、とりあえず安心なのではないかと考えていた。血液の流れに乗って、癌細胞が他のところへ散らばって行くことがあると聞いても、まだピンと来なかった。父もそうだった。ふたりで話し合って、放射線治療よりも、やはり郭清した方が安心だという結論に達しつつあった。

 しかし、放射線か郭清かについて、外科のふたりの先生が次のようなことをおっしゃった。

1.(比較になるかどうかは別にして)進行した膵臓癌では、手術も放射線治療も、予後はあまり変わらない。
2.手術は積極的治療、放射線は消極的治療と捉えるべきではない。
(2については、ノートに記録してなかったが、今突然思い出した。)

 1月8日の夜、I先生と主治医の先生から手術についての話を聞いた。もう外科の出番はなさそうだった。明後日の手術は、リンパ節郭清手術に決定した。
 今回の手術について、次のような説明を受けた。

1.術後の問題として、感染、血液が溜まる、リンパ漏、皮膚壊死の可能性。また、皮膚に至る血管も切るので、傷がジクジクしやすい。
2.下肢の浮腫が現れる。
3.1と2を極力予防するため、抗生剤の点滴、ドレーンの使用等を行う。
4.動脈・静脈・神経を切るので、知覚障害が起こる。
5.術後2〜3週間で落ち着くものと思われ、その頃皮膚移植を行う。    



リンパ節郭清手術

 平成14年1月10日(木)。父のリンパ節郭清手術の日がきた。
 手術は朝9時に開始し、終わったと連絡があったのは夕方の5時だった。父を迎えに行くと、主治医の先生は既に着替えて、手にはコーラの缶を持っておられたので、手術そのものはだいぶ前に終わっていたのではないかと思った。
 
 今回はICUには入らず、そのままもとの病室へ戻った。左右両側の鼠径部にドレーンが挿し込まれていて、もう一方の先は、小さなタンクの中に挿し込まれていた。リンパ液なのだろうか、黄色い液体と赤い血が混じって、タンクの中に流れていくのが見えた。

 形成外科のI先生が、後で説明するというひと言だけおっしゃって、父の足を載せておく台を置いてくれた。先生の表情はとても暗く、険しく、私に言葉を発する機会を与えないという感じを受けたので、私もまた黙ったままだった。
 先生が部屋を出られたあと、私は、胸の上に置かれた父の手に、自分の手を重ねた。ぬくもりを感じながら、じっとベッドの横に佇んでいた。熱い涙がひとすじ、頬を伝っていった。

 父は少しして痛みを訴え、注射を打ってもらった。今回は硬膜外ブロックはしていないようだ。少なくとも、1週間の間は体を動かしてはいけないと聞いたが、大丈夫だろうか。褥創の問題も出てくる。

 6時になって私は、いつもとは違う、廊下の奥の部屋へ呼ばれた。I先生は先ほどの硬い表情のまま、手術の結果を話し始めた。

1.リンパ漏を少しでも抑えるため、大きな静脈は残した。右鼠径部リンパ節は、厳しい感じである。
 リンパ漏を抑える方法を調べてみると、切ったリンパ管と血管を繋ぐという方法があるけれども、腕のいい医師でなければ難しいとのことだった。この度は、手術前には敢えてお願いしなかった。

2.肛門近くに、扁平上皮癌の様相を呈する部分を発見、肛門より2cm離して切除した(この部分は、後日の検査でやはり癌であると判明した)。

3.最初の手術で摘出した化膿巣の、一番奥から癌が発生してきたようである。皮膚の表面からのものであれば、もう少し何とかなったかもしれない。最初の手術で、ギリギリの所で癌を摘出したので、やはり先の見込みは厳しい。
 しかしたとえ肛門、直腸共に最初から切除していても、先行きが厳しいことには変わりないと思われる。癌が、奥のどこまで浸潤しているのかわからない。

 「わからない」と言われても、今までに何度もCTやMRIを撮り、診断してきたのではないのだろうか。まさか、正確な画像診断ができる医師がこの病院にはいないはずはないし。隣県の大学病院にならあるという、PET(ポジトロン断層撮影法)の検査を受ければわかるのだろうか。 

肛門のそばに新たに癌ができているということは、まだ他の箇所へもできることがあるのかと思い、聞いてみたところ、皮膚癌という性質上、まず皮膚に出ることが考えられるとの答えだった。I先生は、「ご本人にはとても言えませんが」と前置きして、取っても取ってもその先へ(逃げるように)ラッシュのように拡がることも考えられるとおっしゃった。そして、それらを取れないことはないが、取ることが延命に繋がるとは言えない、と付け加えた。

 皮膚癌のように、外から見える癌はものすごく残酷である。見えないところで進行している癌もまた恐ろしいのは当然だが、癌細胞が愛する父親の体を蝕んでいくのを目の当たりにするということは、私にとって拷問のようでさえあった。患部を見るたびに、じっと歯を食いしばって耐えるしかなかった。

5.民間療法を行う時は、必ず主治医に言っておくこと。


 父は、両脚を台に載せられていて窮屈なのか、しきりに左足を動かしていた。麻酔から覚めた。眠れないと言うので、部屋を真っ暗にするとうつらうつらして、ときどき目を覚ましてはしゃべったりしていた。
 夜中の3時にやっと点滴が終わり、左手だけ自由になった。
 
 病室の窓から、夜中まで煌々と明かりがついている隣の棟のたくさんの部屋が見えた。人影はあまり見えない。電気のつけっ放しということはないだろう。夜中まで、何の研究をしているのだろう。あの明かりの下で、少しずつ医学は進歩しているのだろうか。
 寒くて暗い闇夜に灯る明かりが、死の恐怖と闘っている患者を明るく照らす日は、永遠に来ないのではないかという気がした。

 明け方、私は急に睡魔に襲われた。6時半に飛び起きた。父には申し訳ないが、一旦、息子たちと夫が待つ家に帰った。



代替医療

 西洋医学の限界を知ったからといって、これで諦めるわけにはいかなかった。もっとも、放射線療法も化学療法もまだ受けていなかったわけだが、父の場合、そのどちらも治癒に結びつく治療だとは言えないようだ。特に化学療法については、その強い副作用のことを聞けば、父に受けさせることを躊躇せずにはいられなかった。

 私は、近藤誠氏の『患者よ癌と闘うな』を読んだ。この本が初めて出版されてブームになっていたとき、どうして医師自らこういう本を書くのか、そのタイトルに首をかしげたことはあった。しかし、その時私はこの本を読まなかった。

 父の場合、抗癌剤の効果が期待できる癌ではないようだし、高齢である父が副作用に苦しみ、最悪の場合は命にかかわることにもなりかねないと聞いては、とても治療に賛成できないと思った。抗癌剤は、「医薬品副作用被害救済制度」の対象外になっていることも知った。

 何か、副作用の心配が少ない、侵襲の少ない治療なら・・・と思ったが、放射線治療の場合も、照射する部位から考えて、腸炎や腸出血の恐れなどがあるらしい。ストマの場合、腸炎を起こして下痢の状態を招くと、大変なことになる。それでも癌が縮小・消失するのであれば、ある程度の副作用も致し方ないと考えてもよさそうだが、効果はあまり期待できないようだった。

 そうなると、何か全く別の治療法を探すことを考えるしかない。
 代替医療(民間療法もほぼ同じ意味と理解しているのだが)の情報は、氾濫という言葉を使ってもいいくらい多かった。しかしもちろん、効果の有無は疑問である。日頃私と息子達がお世話になっている内科の先生にまで、意見を求めた。

 代替医療は、「高価」なのに「効果」はないと考えられること、抗癌剤が奏功するかどうかは、癌の種類によってはっきり分かれていて、癌によっては、20〜30年前とちっとも変わらない治療が行われていたりすることなど、あちこちで聞くのとほぼ同じご意見だった。

 私が代替医療に頼ってみようと思ったことには、全く根拠がないわけではなかった。以前、息子のNのアトピーがひどかったとき、ステロイド軟膏や食事療法だけでは、どうしても症状が改善しなかった。確かにステロイド軟膏はよく効く。しかし、塗るのをやめると症状は元に戻ってしまう。皮膚が弱い乳幼児の顔面に使えるものは、弱いタイプのものばかり。しかも、マスコミがその副作用について騒ぎ立てたせいか、特に乳幼児を持つ母親の間では、副作用の強い恐ろしい薬と思われることが多かったようだ。

 図書館に並んでいたアトピーに関する本をほとんど読み尽くした私は、にがりを含む自然塩で息子の病状を軽減させることができた。完全に治せるわけではない。メカニズムが解明されているわけでもない。対症療法に過ぎない。でも、現代の医学が治してくれないなら、この子の母親であるこの私がなんとかしてやるしかないと、そのとき思ったのである。

 父は既に、年末からアガリクスを飲んでいた。私は、アガリクスに関する本も1冊読んでみた。その本では、実際に飲んだ人たちにアンケートを取って、結果を集計していた。しかしよく見ると、回答を寄せた人たちだけを母集団として結果が集計されていた。
 効果がなかった人たちは、回答を寄せる気になどならないかもしれないのではないかと、私は思った。

  癌に効くと言われているものは、調べればいくらでもあったが、実際に使っている医師がいて、何らかのデータが出ているものの方が、少しでも信頼できると思った。そして、AHCCと、サメ軟骨(アメリカではFDAが一部のサメ軟骨製剤を臨床試験薬として承認しているらしい)を使うことにした。素人が適当にやるよりはと思い、それらを使っているという近くの○○医師を訪ね、この医師からセカンド・オピニオンを提供してもらうことにした。



術後の経過

 父は、お尻が痛くて座れないので、食事をするのはほんとうに苦労した。入院したばかりの頃は、まだ立ったまま食べる元気があったが、最初の手術をしてからずっと、ベッドに横になったまま、上体だけ少しベッドを起こし、左側へ体を向けて食事を取った。
 時には、上を向いて寝たまま、お茶碗を左手で反対に向けて持ち(言葉での説明は難しいけれど)、器用に自分で食べていた。しかし、汁物はストローで吸うしか方法がなく、好物の味噌汁もおいしく感じられなかったという。

 ひとりでは不便だったので、できるだけ食事の介助ができるよう、私は時間を合わせて病院を訪れたが、父はできるだけ自分の力で食べようとした。人にも厳しかったが、自分にもとても厳しい人間だった。

1月13日(日)。術後初めてのガーゼ交換。あまり痛くなかったらしいが、父は元気がない。この大学で、免疫療法の研究をされている先生をすべてリストアップして、父にも見せた。紹介してくれるよう主治医に頼んでみようかと、相談した。
 
1月15日(火)。夜8時半に電話すると、37.5度の発熱。鼠径部左側の手術の傷跡がどうも具合が良くない。左側にあるストマのせいかもしれない。

1月16日(水)。AHCCをもらいに、初めて○○医院へ。昼食後より飲み始める。体調の悪い母が無理をおしてやって来て、父の昼食の介助。父は母に無理を言って叱られてシュンとする。でも、やはり母が一番いいはず。父は、娘の私には遠慮していることが多い。
 父は、「(AHCCが)効くかどうかは、運だ。」と言う。そのとおりかもしれない。絶対に効くとはいえないのがつらい。37.3度の発熱。

1月17日(木)。 術後1週間経過したが、とてもベッドから降りてもいいと言われる気配はない。

1月18日(金)。37.5度の発熱。ペニシリン製剤の点滴。どうも、左側の傷が化膿したらしい。母の通院、2カ所回ると父の所へ行くのが遅れ、食事の介助ができなかった。申し訳ない。父は、少々自暴自棄な感じ。無理ない。

1月20日(日)。気分が良いみたいで、よくしゃべる。小泉首相や社会党のことを話す。

1月21日(月)。外科のY先生が見えて、「肛門はまだ充分機能する」とおっしゃったそうだ。皮膚が痒いので、ザジデンが処方された(免疫力は落ちないのだろうか?)。

1月22日(火)。N医院で、ザジデンのことを聞く。問題ないようだ。ブレオマイシンの軟膏を塗ってはどうか、主治医に相談することを勧められる。AHCC増量。かなりの金額の支払いになる。ほんとうに効くのかという疑問が拭い去れない一方で、わらをもつかむ気持ち。
 父は主治医から、放射線と併用で、化学療法を受けないかと言われたらしい。

1月23日(水)。私の誕生日。うれしくもないけれど、誰も覚えていないのに自分だけ覚えているというのは、自分も忘れているより虚しい。10年ごとに一大事がある。10年前のきょうは、父方祖母の葬儀だった。(10年後のきょうはどうなるのだろう。)

1月24日(木)。やっとベッドから降りる練習開始。脚がしびれていて、自分の脚ではないように感じるらしい。

1月25日(金)。体が動かせるようになったせいか、父は少し余裕ができたのか、私に体を休めろと言ってくれた。手術で摘出した11個のリンパ節のうち、右側の1個だけ癌細胞がみつかった。原発巣を摘ると、他の転移巣が動き出すこともあるという。

1月26日(土)。父は、エレベータの前まで歩いた。リンパ液が溜まる小さなタンクを左右につけたままで歩行器を押すのは、大変な作業。それでも、だいぶ表情に余裕が。あすは階下へ新聞を買いに行くと言うが・・・。

1月27日(日)。父は自分で歩いて新聞を買いに行ったが、あとで主治医に、階下へ降りては駄目だと言われたらしい。
 
1月28日(月)。放射線治療と化学療法に関する本の一部をコピーして、父に渡す。久々にシャワー。歩く練習は・・・面倒くさいと言う。無理ない。

1月29日(火)。昨日渡したコピーを読んだのか、「もうこれ以上何もしないで退院しようか。」とか「この病院へ来たのは間違いだったのか。どんどん悪くなっているようだ。」と言う。つらい。

1月30日(水)。父は自分なりに治療方針を固めた。通院で放射線・化学療法を受け、副作用が出たら中止するという。気持ちが固まって余裕が生まれたのか、「毎日悪いな」と言う。

1月31日(木)。何日ぶりだろうか、主治医と話をしたのは。父は、また気が変わったのか、きのう言っていたことと違って、放射線・化学療法をやめて、2月に植皮手術を受けたら退院すると言う。

 主治医に、温熱療法と抗癌軟膏(ブレオマイシン)、この病院での免疫療法や遺伝子治療のことも聞いてみた。何でも聞いてくださいと言ってくださったので、聞きたいことをすべて聞いた。

 温熱療法の設備はあるが、特に皮下脂肪の薄い人は熱くて耐えられないし、効果もわからないという。ブレオマイシンは、イボには良く効くけれど、癌には・・・?それに今直接塗れるところがない。免疫療法などはまだ動物実験の段階で、しかも研究しているのは肺癌に対する治療だという。

 腫瘍マーカーのことを初めて聞いてみた。皮膚癌の腫瘍マーカーというのはまだないので、SCCという肺癌(扁平上皮癌)のマーカーを調べているということだった。腫瘍マーカーは絶対的な指標ではなく、癌以外の病気で数値が上がることもあるという。
 でも、1回目の手術後、正常値に下がったという。(そんなことは初耳。そんな大事なこと、もっと早く言ってくれないと。)うれしい。父も明るい。

 父は、母と私をエレベータの前まで送ってくれた。うれしいことは、いつもの何倍もうれしい。やっと左右の鼠径部のドレーンを抜いた。


 2月の初め、まだ発熱することもあった。もしかしてAHCCが効いているのか、白くなってしまっていた父の髪が、真っ黒になって誰もが驚いた。
 4回目、○○医院へ行ったとき、放射線・化学療法のことを相談した。腫瘍マーカーが正常値なら、植皮後、一旦退院しては?とのこと。
 
 ○○先生、気になる話。放射線は皮膚癌の原因になる。キュリー夫人もそうだった。放射線の照射で惹き起こされた腸炎は治らず、腸が線維化してしまう。(ほんとうなのだろうか?)

(「父の闘病記5」へ つづく)





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