父の闘病記5(皮膚移植)

皮膚移植手術

 平成14年2月7日午後7時、父と私は翌日の手術についての説明を受け、共に同意書にサインした。説明の内容は、次のとおりだった。

1.行う手術は、デブリードマン分層植皮術。局所麻酔で行う。
2.右大腿部から皮膚を採り、メッシュ状にして、肛門近くの術後の傷に移植する。メッシュ状にすることで皮膚がよく伸びるので、広い部分に移植でき、浸出液や血液が植皮部内に溜まることなく、外へ排出される。皮膚を採ったあとは再生する。 
3.植皮部を綿で押さえ、糸を渡して固定する。植皮部分の50〜70%くらいは生着する見込み。約1週間で生着が確認でき、抜糸。2週間で落ち着く。
4.感染・出血のリスクはある。抗生剤投与で対処。

 執刀医はどなたか聞くと、形成外科のI先生はその日不在であるので、主治医の先生が執刀するとのことだった。父と顔を見合わせて、ちょっと不安な表情をすると、「僕でもできる簡単な手術ですから」と自身ありげにおっしゃった。

 翌日2月8日(金)の午後12時半、父は病室を出た。いろんな用事があって午後3時半過ぎに病院へ戻ると、手術は既に終わっていて、10分くらい前に病室へ戻ってきたとのことだった。手術場へ迎えに行けなくて、父に申し訳ないことをした。局所麻酔だったので、やはり相当痛かったらしい。今も傷がザクザク痛むと言う。

 父は、今夜は泊まらなくてもいいと私に言ったが、その一方で、泊まるのならこの毛布を使えばいい・・・などと言うので、気兼ねしていることはわかっていた。微熱も出ていたので、やはり心配で泊まることにして、一旦自宅へ戻った。

 息子のNは、「おかあさんがいないとよく眠れない。」とうつむいてつぶやいた。この子は喘息の持病があり、夜中に発作を起こしたこともあるので、夫に任せるのは非常に気掛かりだった。この病気は、不安があったりすると発作が起こることもある。私もNがおなかにいたとき罹ったインフルエンザが引き金になって、妊娠後期に生まれて初めて喘息の発作を起こしたことがあったので、身をもってその苦しみはわかっていた。
 国内で年間約6000件もの死亡例が報告されている。侮れない。(この子も一緒に連れて行って泊まろうかと思ったこともあった。)

 夜の10時、既に消灯した病院へ戻った。父は、「子供がかわいそうだから帰れ。」と言った。その夜は、父はあまり目を覚まさずよく眠った。朝になると、「やっぱり泊まらなくてもよかったな。」と言った。やはり気にしているのだ。



皮膚移植失敗

 「失敗」という言い方は手術してくださった先生に対して失礼かもしれないが、移植した皮膚は生着せず、手術の結果は失敗ということになってしまった。

 術後4日目の2月12日(火)の正午過ぎ、父のもとを訪れると、ちょうど主治医の先生が病室から出てこられた。「駄目だった。」とおっしゃるので、どうしたのかと思ったら、植皮部分が生着していないという。緑膿菌に感染しているせいだとか、癌細胞が潜んでいるせいだとか、考えられる理由を聞かされた。
 そういえば、植皮する前に、植皮を行う部分の硬くなったところを取っていると、また小さな塊のような(癌と疑われるような)ものが見つかったと、父は主治医の先生から聞かされたらしい。有茎皮弁術(皮膚だけでなく、皮下脂肪ごと移植する方法)という方法もあると聞いているが、できないのだろうか。

 主治医から、やはり、直腸・肛門全摘の必要があるかもしれないと言われた。次の手術に備えて、ベッドから降りて体を動かし、体力を養うようにと指示された。

 その日の帰り、父から同窓会の出欠の返事の葉書を投函するよう頼まれた。(父は元教師である。)返事をなんて書いているのだろう。どうしても気になって、そっと裏返してみた。
 返事は「出席」だった。そしてメッセージの欄には、こう書いてあった。“今は入院中ですが、5月までには全快して、必ず出席します。”
 私はうれしかった。今のこの状態で、なおも前向きに進もうとしている父の勇気に、改めて敬意に似たものを感じた。

 しかしさすがの私も疲労を感じることが多くなっていた。病院から戻るとぐったりしてしまい、横にならずにはいられなかった。毎日、朝起きると大急ぎで自分の家の用事を済ませ、父のもとに通い、母の様子も見て通院に付き添い、いつも時間に追われていた。毎日3時間くらいの睡眠でも、人間は生きていけることも知った。
 でも・・・こういう生活が、いったいいつまで続くのだろうと思うこともあった。ただ、ゆっくり眠りたかった。

 



つらい経過

  2月15日(金)。手術から1週間経った。体調のすぐれない私は、その日子供の学校の行事もあったので、父のところへ行くのを休むことにした。
 新聞を見ていて、父の知り合いのある方の訃報を知った。父に知られたくないと思ったが、父も新聞を見ていた。しかも、この方は父と同い年らしく、父はひどく落胆し、私は掛ける言葉さえみつからなかった。

 翌日、ちょうどガーゼ交換に行き合わせた。植皮するはずだった部分の下の方に、目で見てしこりとわかる大きさのものがあった。前に見たときはなかった。痛みを感じる部分もあるという。
 皮膚を採った大腿部は、ガーゼを剥がすのがものすごく痛そうで、辛抱強い父でも思わず声が出るくらいだった。見ていてたまらない。

 このところ痛みの方も増しているようで、ロキソニンでは効かず、ペンタジンを1日3回のんでいた。植皮手術のせいで痛むのかと思ったが、主治医の話では、癌の痛みではないかということだった。

 2月19日(火)。○○医院へAHCCを取りに行く。雪が舞う寒い日。父が入院したときはまだ秋だったのに、こんなに寒々として冷え切った季節。この冬を越せば、そこには希望あふれる春が待っているのだろうか。
 N先生に、先日ガーゼ交換時に見た癌らしいしこりのことを話す。「検査の結果を待ちましょう。先走ってはいけません。」と静かにおっしゃったが、あまり楽観視はできない。

 2月20日(水)にはCT、22日(金)にはMRIと胸部のレントゲンを撮ったらしいが、結果はどうだったのだろう。病棟婦長が父のところへ来て、痛み止めの種類を変えてもらおうとか、もっと運動しなくては、とか言っていた。
 でも父は痛くて痛くて、動きたくても動けない。皮膚が生着しない原因は先にわかっていたようなのに、どうして無理に植皮手術をしたのか腹が立つと言って、父は怒りをあらわにしていた。

 植皮ができないと、これからもずっと座ることはできない。円座クッションなども使ってみたが、父の場合は傷も大きく、痛みなしに座るのは無理だった。それに、多量の浸出液に悩まされ続け、激痛を伴うガーゼ交換にも、毎日、多い日は朝晩2回、耐えていかねばならないことになる。 
 
 それでも父が、「体力をつけなくては。」と無理に食事を取ったりして頑張る姿勢には、こちらが勇気づけられた。AHCCのせいか、ますます髪は黒くなって、若々しくさえ見えた。
 珍しく外科の先生が3〜4人見えて、皮膚が生着しないなら(他に)することをしなくては・・・とか、先に放射線を当ててはどうか、とか言われたらしい。
 この頃から急に、癌が原因だと思われるにおいを感じるようになった。

 私は主治医から何も聞いていなかったが、2月22日(金)から、抗癌剤のブレオマイシンを塗っていると父から聞いた。そのせいか、痛みが少しだけ減ったという。しかし、この軟膏は保険がきかず、5gのチューブが1本1万円というのには少々驚いた。高価なのは、民間療法だけではないようだ。
 植皮できなかった傷からの浸出液が増えて、かなり大きなパッドが必要になった。

 2月24日(日)のお昼前に父のところへ行くと、ちょうどガーゼ交換中だった。部屋から出てきた主治医に、先日のCTとMRIなどの結果を聞くと、あわてて逃げるように立ち去ってしまった。言いたくないことがあるのだと直感した。ブレオマイシンを使っていることも、私には話してくれないし・・・。ブレオマイシンについて調べてみると、軟膏の場合で73.4%効果があるらしいが、実際どうなのだろう。

 痛みが強くなってきて、父にとってガーゼ交換はとても苦痛だった。痛かったと言って、交換のあとじっとうずくまって、激しい痛みをこらえていた。ベッドに横たわる姿がだんだん小さくなっていくような気がして、悲しかった。左足がすごくむくんでいる。リンパ節郭清手術のあとずっとそうだったと父は言うが、術後すぐはそんなにひどくなかった。
 AHCCの効果も、目に見えて現れることもなく・・・。父にどう言葉を掛けるべきか、悩む。
 ({闘病記6」へつづく)





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