父の闘病記6(肺転移)

信じたくないこと

 平成14年2月25日(月)の午前11時、自宅の電話が鳴った。電話が鳴るたびに、ドキリとする。
 不安が的中した。やはり、主治医の先生からだった。
 この前撮った胸のレントゲンで、右肺に“結節”が見つかったという。多分・・・転移らしい。

 とうとう恐れていたことが現実になってしまった。でも・・・信じたくない。父は若い頃、肺結核を患ったこともある。その関係で影が映ったのではないのか。しかし、今まで撮ったときにはなかったということはやはり・・・。
 あす26日、CTで再確認するという。これが転移だとすれば、もう直腸・肛門摘出手術の適応はないという。植皮できないままで放射線治療が可能かどうか、肺(転移巣である場合)の治療の可否も含めて、放射線科で診察を受けることになるという。今使っているブレオマイシンは、当然ながら、表面にだけしか作用しない。

 よく晴れた日だった。明るい陽の光がさす中で、電話を切ったあと、しばし呆然として座り込んでしまった。リンパ節転移がみつかった段階で、遠隔転移の可能性もあるとは言われていたが、まさかほんとうにそうなってしまうとは思わず、ずっと望みをつないできた。なのに、どうして・・・?
 私は初めて、家の中で声をあげて泣いた。今まで耐えていたものが一度にどっと溢れ出たようで、どうにも止められなかった。泣き腫らした目をして、父のところへ行ってはいけないということも、忘れてしまっていた。

 お昼過ぎに病院へ行くと、母も来ていた。母は早くから来ていたらしく、父は母の体のことを気遣って、私に今すぐ家まで送るようにと言うので、私は30分も経たぬ間に父の病室を出た。
 母は、数年前から極端に物忘れがひどくなり、掛かりつけの神経内科で、アリセプトを処方されていた。父が癌であることは、もちろん話していない。父から堅く口止めされている。
 
 しかし、母の症状には波があるようで、この頃少し頭がしっかりしてきていた。だが、その分父の病気のことをいろいろ言うようになった。婦長を呼び止めて父のことを聞き出そうとしたり、主治医に声を掛けたり、母なりに気に掛けていた。

 私にも、父の病気のことをどう思うかとか、自分はあまり良くないように思うとか、悪性のものではないのかとか、いろいろ聞いてきた。母は疑心暗鬼になっている気もした。しかし私は、時間はかかるが良くなるとしか言えなかった。平気な顔をして、笑みさえ浮かべて母を安心させようとしてうそをついている自分に、少しだけあきれていた。放射線のことも気にするので、前癌状態かもしれないから治療するのだなどと、いい加減なことを言ってごまかすしかなかった。

 母は、父が痛みのせいで機嫌が悪いことがあると言った。痛みさえなんとかすれば、気力も戻ってくるかもしれないのに。父は、母には、ある程度本音で接しているのだと思った。父は、母に「遺言を書いておかなくては」とも言ったらしい。私には遠慮している。夫婦は親子を超えるのだと思った。たとえ、もともと赤の他人であっても。

 あす○○医院へ行って、今度こそサメ軟骨を出してもらおうと思った。もっと早く飲ませたかったのだが、手術の傷が治らないと困るので、二の足を踏んでいた。

 サメ軟骨には、癌が新生血管を作るのを阻害する作用があるので、治っていない傷があったり、心臓に問題があったり、出血しているところがある場合は使えないと聞いていた。



放射線科

 父は、植皮の後でなければ放射線の照射はできないと言われていたが、植皮できなかったので、このまま照射できないかと放射線科医の診察を受けることになった。

 平成14年2月26日(火)のお昼前、父をストレッチャーに乗せて、看護婦さんといっしょに放射線科外来を訪れた。

 この病院の中で、なぜかこの「中央放射線部」だけは廊下が薄暗く、薄気味悪い感じがした。子供の頃から、来る度にそう思った。私だけがそんな印象を持っているのかと思ったが、他にも同じことを言っている人がいた。
 そんな薄暗い廊下の奥に、「コバルト」や「リニアック」など癌の治療に関係のある単語を見ただけで、もうここは外界とは遮断された、死と向き合うための特別な空間であるような、身が凍りついてしまうような感じがした。

 寒い廊下で半時間も待った後、やっと診察室へ入った。臀部の傷は、前回見たのはいつだったかはっきり覚えていないが、さらに大きく深くなってしまっていた。私はまた泣きたい気持ちになった。
 診察した先生は、ひと目見るなり「これは治療できない」と言い放った。大きな声で、父や私たちの方を見ずに、なぜか横を向いて吐き捨てるように言われたので、父と私の受けたショックは余計に大きかった。

 一応、治療できない理由は示された。「放射線の照射で痛みは和らぐかもしれないが、皮膚が引きつって痛みが出てくるので、総合的に見てどちらがいいかわからない。それに、植皮できていないところに照射すると潰瘍を形成し、もう絶対に植皮ができなくなる。」とのことだった。

 癌の痛みは、体験したことのない者には想像もつかないくらい、激しい、耐え難い痛みであると聞いていた。私自身が体験した痛みで最も強いもの・・・陣痛よりもまだ痛いのだろうかと思った。あれ以上の痛み、それも陣痛と違って終わりのない激しい痛みに常時苦しめられている状態など、想像もつかない。
 皮膚が引きつることで生じる痛みとは、それを上回るものなのだろうか。そうは思えない気もしたが、とても質問できるような雰囲気ではなかった。
 治療の選択肢がまたひとつ消えた。

 診察の後、父はCTの検査室へ入った。昨日主治医から話があった、肺転移の確認をするためだった。

 検査を待つ間、廊下のソファに、付き添ってきてくれている看護婦さんと並んで座った。多分忙しくて昼休みなどまともに取れていないだろうと思い、検査が終わったら私ひとりで父を連れて帰ると申し出たが、終わるまで付いていると言ってくれた。
 何か話をしようと思ったが、父の病気のことを話題にするのはタブーのようなので、他に話題を見つけることもできず、結局黙っているしかなかった。気詰まりだった。
 



別の選択肢

 私は、放射線科を受診した日、父のもとへ行く前に○○医院へ行き、サメ軟骨を出してもらってきていた。○○先生は、治療の方法を変えてみませんかとおっしゃった。どういう意味だろう。肺転移が見つかって顔色が変わっている私に対して出てきたかもしれない言葉を、どう捉えるべきなのだろう。
 お金はいくらかかってもいいと思った。僅かでも可能性があるならば。でも、その気持ちを相手に見透かされているかもしれないと気づくぐらいの冷静さは、まだ私にも残っていた。

 放射線治療についての意見も聞いた。肺癌に照射して癌そのものは縮小したものの、肺が線維化して苦しんでいる人もいるということとか、癌は外からだけでは治せないので、体の中から治さないと駄目であることとか、西洋医学の問題点や限界について話された。

 “治療の方法を変える”とはどういう意味か敢えて聞かずに、サメ軟骨とAHCCだけを手に、私は○○医院をあとにした。

 父は、放射線治療は受けられないと言われたこともあり、サメ軟骨を飲んでみると言ってくれた。決して飲みやすいものではなかったし、効果を期待するにはかなりの量を飲むことが必要で、いろいろな面で負担は大きかった。
 でも、もうこれしか残っていない。今度こそ効いて欲しいという祈るような気持ちだった。

 AHCCとサメ軟骨を使った癌の治療を行っている大学病院があり、その結果なども本やホームページで調べた。皮膚癌についてはデータがなかった。でも、末期癌にでも奏功した例もあると聞いては、すがりたくなるのは当然だと思う。何もせず、苦しむ父をただ眺めていることなどできるわけがない。

 心のどこかで、このような、無駄であるかもしれないことに多額のお金をつぎ込み、父には飲みにくいものを飲ませるという負担を強いて、喜んでいるのは健康食品業者だけかもしれないという思いがあったのは事実だが、その思いを打ち消すことで私は自分自身をかろうじて支えていたのかもしれない。

 この治療についての本を父に渡してあった。痛みが強くて読む気力もないと思い、持って帰ろうかと尋ねたが、父は置いといて欲しいと言った。父にとって、お守りのようなものであったのかもしれない。



2度目の余命宣告

 平成14年3月1日(金)の朝、主治医の先生から電話があった。きょうの5時、父の今の状態の説明をするとのこと。5時を少し過ぎてもいいというので、私は7〜8分遅れて病院に到着した。エレベータを降りると、ちょうどナースステーションからシャーカステンを運び出すところだった。私に説明するためだとすぐにわかった。

 そういえば・・・今まで、父の病状の説明で、一度もレントゲンやCT、MRI、シンチなどの写画像を見せてもらったことがなかった。きょうは見せてもらえるのだろうか。普通、そういう説明を受ける場面では、必ず何枚もの写真が並べられているのではないかと思うけれど。

 緩和ケア室のカウンセラーの名札をつけた人までいた。こんな人まで出てくるということは・・・いよいよ駄目なのだろうかと思わないわけにはいかなかった。きょうは、かなり覚悟して来たつもりだった。夫が同席しようかと言うのも(父が望まないことだから)断って、いつもどおりひとりで来た。

 リンパ節郭清手術の後で呼ばれたときと同じ部屋だった。主治医の先生と形成外科のI先生、外科の先生がひとり、カウンセラーのM先生、それに、病棟の看護婦さんひとりと、会ったこともない、白衣を着た人まで来ていた。きっと、「見学者」なのだろう。ここは大学病院だから。

 用意されていたのは、胸のレントゲン写真だけだった。転移巣らしいものが写っていた。大きさを聞くと、1.5×2.0cmとのことだった。できている場所も聞いた。右肺底部とのことだった。どうも、進行が速いようだという。

 原発巣を摘出した部分に局所再発が見られ、約7.0×9.0cmにまで大きくなっているという。しかし、言葉で言われただけで、写画像等は見せてもらえなかった。いつの間に、そんなに大きくなったのだろう。この部分と肺以外にも、画像に出ない病巣があるかもしれないという。

 いつも私がひとりで説明を受けるので、病院側も不安なのだろう。前にも事情は話したのだが、またI先生に、他に誰かいないのかと聞かれた。娘相手に話をして、話の途中でワッと泣かれるのではないかと思われているふしもあった。あるいは、話を聞いていない親戚の者たちと、後日トラブルまがいのことでも起こることにならないかと、心配されていたのかもしれない。

 しかし私はこれまでずっと、父と病院関係者の前で、涙一滴こぼしたことはない。そんななさけない自分を許すわけにはいかないと私は思っていた。私が取り乱してどうする。それに、父の弟たちはみんな県外に住んでいるし、第一父が誰にも言うなと言っていたのだから止むを得ない。

 癌と闘っている方の中には、自分から癌であることを話す人もいるが、父は決して誰にも言わなかった。癌であることを知られることで、最期が近いと思われるのがたまらなくくやしかったのだと思う。父はそういう人だった。

 看護婦さんが、父から言われたことを話してくれた。「病状が良くならないなら言って欲しい。身辺整理をしなくては。」と言ったらしい。娘の私にはそんなことはひと言も言わない父だった。言ったら私を悲しませることになると思っていたのだろう。
 (おとうさん・・・そんなにまで気を遣って。)私には、父が本音を出せるだけの気持ちの余裕も、父の悲しみや苦しみを受け止めるやさしさもなかったのだ。ただただ厳しい状況を否定し、やみくもに突き進もうとするこの気性の激しさだけが、ひとり歩きしていたのだ。なんという、親不孝な娘だろう。

 改めて、I先生が余命のことに触れた。あと数ヶ月だという。数ヶ月って・・・?半年なら半年というはずだから、半年にも満たないということなのか。もうひとりの私が、「そんなのは一般論だ。医者はいつも余命は短めに言うのだ。」とささやいた。

 カウンセラーのM先生が、本人に余命を告げて、思い出を作る時間が必要だと言った。教科書に書いてあるようなことしか言わない人だと思った。
 父の今のこの状態で、いったいどんな思い出が作れるというのだろう。痛みを取ることも充分にしてもらっているとは思えない。主治医の先生は、ペンタジンの処方を増やしたことで何とかなっていると言われたが、父はいつも痛みに耐え切れず、薬の時間を待てずに早めに服用していた。



最後の選択肢

 この病院で、あと考えられる治療は、もう化学療法しかなかった。父も私も一番恐れていた治療だった。

 使用する抗癌剤として、シスプラチンペプレオマイシンを検討しているとのことだった。シスプラチンは、副作用の吐き気が強くて有名だと聞いていたし、ペプレオマイシンはひどい肺線維症を惹き起こす恐れがあるということだった。その他にも、骨髄抑制、感染、脱毛など、多くの副作用が現れる可能性が極めて高いとのことだった。

 この病院での、皮膚癌に対する化学療法の実績について尋ねた。今までここではあまり行われたことがないという答えだった。主治医の先生は、化学療法に携わるのは、ご自分は初めてだとおっしゃった。なんでも、がんセンターのある先生から指針のようなものが示されるそうである。薬ひとつ使うにも、微妙なさじ加減があるだろうに、生死にかかわるような危険な治療を、経験の少ない先生方にお願いして大丈夫なのだろうか。私は大きな不安を感じた。

 しかし、もうそれしか方法がないと言われては、心が動いてしまう。副作用死という事態すら招きかねないというのに、それを父に受けさせるなど、とても無理ではないかと思うのだが。

 シスプラチンの説明書きにははっきりと「毒」と書かれていたし、ペプレオマイシには「劇薬」と書かれていて、恐ろしい薬であることを改めて知った。しかも、はっきり言って、ほとんど効果は期待できないというのだから、そういう薬を使うことの意味が理解できない気がした。

 癌の治療のひとつの“メニュー”であるからとか、他に治療法がないからとか、ただそれだけの理由で耐え難い副作用に苦しまねばならないのだろうか。今までこれだけ苦しんで、この上父にさらなる苦しみを負わせることなど、許されるのだろうか。

 私が先に説明を受けたことは、もちろん父には内緒だった。
 1時間くらい経過して、一応話は終わった。私は廊下へ出た。両手に荷物を持ったまま、あてもなく歩き始めた。1時間後、父の病室で化学療法のことを先生方が父に直接話されることになっていた。
 
 父の病室へ行く勇気もなかった。今出てきた部屋のそばの階段を、ゆっくりと降りて行った。踊り場で立ち止まろうとしたが、結構人が通るので、じっと立っているわけにもいかない。階下へ降りて、薄暗い廊下の隅のソファに、まんじりともせずしばらくの間座っていた。

 胸の奥からぐっと熱いものがこみ上げてきて、目の前がかすんだ。薄暗い廊下を通る人はほとんどなく、誰の目も気にする必要はなかった。自分が今、何も考えていないような気がした。

 しばらくして私は、父が癌の宣告を受けてからずっと持ち歩いている目薬を取り出した。目にしみた。やっと気を取り直して立ち上がった。ここでこんなことをしている場合ではない。改めて癌に“宣戦布告”だと思った。

 父の病室へ行かなくてはならないので、エレベータに乗った。なぜか2階から、先ほどのカウンセラーのM先生が乗ってきた。(どこにいたのだろう?)ずっと病気で休まれていて、きょうから職場復帰されたという。ほんとうだろうか。

 父は、主治医の先生から、局所再発した部分が大きくなっていることと、化学療法を検討していることを聞かされた。肺転移のことは、絶対に父には言わないようにお願いしておいた。今の父にとって、遠隔転移がないということだけが、生きる支えなのだ。
 父は静かに話を聞いていた。形成外科のI先生は、黙って力なく壁に寄りかかっていた。I先生は、初めてペプレオマイシンが出たときは、「夢の薬」だと言われたものだったが・・・とおっしゃった。
 ベッドに横たわっていた父は、何人もの先生にぐるりと取り囲まれて見下ろされ、異様な圧迫感を感じたと思う。

 結局父は、化学療法を受けることに同意した。他に方法が残されていないと言われては、誰だってYESと言うしかないではないか。私だって、気持ちが動いた。他に選択の余地がないということは、そういうことなのだ。





トップへ
戻る